人間が生まれるのは簡単で

とてもシンプルなのに、

死はなぜか煩雑で高価です。

 

 

 

ちょうどコロナが流行し始めたころ、

日本の田舎に住んでいた

父と祖母が立て続けに他界しました。

 

 

(Photo by CA Creative on Unsplash)

 

 

ですが、

 

 

家族が死んだことを

純粋に悲しむゆとりはいずこ。

 

 

1週間の休暇を取っては帰国し、

地元の住職への高価なサービス代、

引き取り手のいない田畑の固定資産税、

葬儀代の支払いに追われつつ、

 

 

空き家になった実家の処分に

駆けずり回りました。

 

 

(picture by Bruno on Unsplash)

 

 

すべての手続きがひと段落し、

 

 

様々な行政手続きや、

田舎の風習からようやく解放され、

ほっとしている自分がいます。

 

 

それにしても、

家族の死を通してつくづく感じたのは、

 

 

「人の死も

資本主義社会にあってはビジネスだ」

 

 

ということ。

 

 

(picture by MARIOLA GROBELSKA on Unsplash)

 

 

空き家だらけの

過疎化する小さな村には

不似合いなくらい

立派な仏具がいっぱいのお堂を見て、

 

 

田舎の坊主は

結構儲かるんだなあ

 

 

なんて、

 

 

木魚の響く仏堂で考えた自分は

少し罰当たりかもしれません。

 

 

 

でも、

 

人間が生きるということは

本来シンプルなことのはずなのに、

 

 

この社会はどういうわけか複雑で、

誰かが決めたルールでいっぱいです。

 

 

生きることが

ときには難しかったりするのは、

本来シンプルなことを難しくしてしまう

人間の性ゆえなのかもしれません。

 

 

(picture by  digidreamgrafix on Adobestock)

 

 

本当は、

 

 

今は亡き家族や友人を

慕っていた人だけで集まって

美味しいものを頂きながら

想い出話を語り合ったり

 

 

その人が存在してくれたことに

皆で感謝したり

 

 

それくらいシンプルで、

いいんじゃないの?

 

 

―と思ってはいるけれど、

 

 

 

それは伝統としきたりに口うるさく、

社会的体裁を重んじる親戚には

とても言えない本音。

 

 

そんな考え方は

見渡す限り山だらけの田舎にに育ち

そこで最期を迎える彼らには不可解で

 

 

私のような人間は、

宇宙人みたいなものなんでしょう。

 

 

(picture by 张 嘴  on Unsplash)

 

 

自由に生きるということは、

自己責任ということ。

 

 

 

まだ死ぬことを考える年でもないけれど、

好きな場所で好きに生きているからには、

 

 

どの国で死ぬのか、

死んだら誰に何を任せて

どこに葬ってもらいたいのか。

 

 

甥と姪に迷惑をかけないよう、

よく考えて準備しておかなくちゃ―。

 

 

とリアルに思う今日この頃です。

 

 

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