日本史

開国の影響と幕末の動乱のはじまりを解説【日本史/幕末】

歴ブロ

17世紀後半に市民革命を達成し、18世紀後半には綿糸紡績業を中心に産業革命が始まっていたイギリスをはじめヨーロッパ諸国では蒸気を動力とする機会の利用によって工業生産力が飛躍的に高まっていました。

この革命により大量生産大量消費の時代に移行する過程で、販売市場と原料を確保するためアジア諸国などに進出し始めます。資本主義的世界市場に強制的に組み込もうとし始めたのです。

その流れは東アジアにまで波及しました。1840年にはイギリスが清を破ったアヘン戦争が発生。大国の清の思わぬ敗戦の報を聞き、江戸幕府にも動揺が走りました。

そうした数々のヨーロッパ諸国の情報がもたらされる中、ぽつぽつと異国からの来航が日本でも増加。そのたびに各法などを整備してやり過ごそうとしていますが、とうとう1853年にはペリーが来航します。

幕末の情勢

大砲のついた強そうな黒船の来航による危機感から国内の意見が真っ二つに分かれます。

その真っ二つの意見がある中、それまで限られた貿易できる港だけでなく箱館、神奈川、新潟、兵庫、長崎を開港させる条約(日米和親条約/日米修好通商条約)を幕府が結んだことを機に日本は動乱の時代に突入します。今回は開港による影響について教科書をもとにまとめていこうと思います。

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開港とその影響

1859(安政6)年から貿易が始まったのが横浜・長崎・箱館です。条約締結後、開港・交易を行うにあたって、日本では外国人の居住や営業できる地域を決まった一部の土地だけに留めました。これを居留地と呼んでいます。

外国人との取引は日本人商人の

  • 売り込み商:輸出品を売り込む貿易商
  • 引き取り商:輸入品を買い取る貿易商

と呼ばれる人たちが、この居留地で銀貨を用いて行いました。

最も輸出入額が多かったのが横浜で、相手国はイギリス。その内容は

<輸出品>

  • 生糸(80%)
  • 茶/蚕卵紙/海産物

<輸入品>

  • 繊維製品:毛織物/綿織物(70%)
  • 鉄砲/艦船などの軍需品

といったもので、交易開始後は輸出が多かったのですがすぐに輸入超過になりました。

さらに特に開港前後から工場制手工業と呼ばれる生産形態が日本の農村部では広まるようになっていましたが、すでに産業革命後のイギリスで機械によって作られた安価な綿織物が入ってきたことで農村の綿織物業を圧迫しはじめます。

工場制手工業とは?

商人などが作業場を作り、人を集めて分業により製品・商品を作ること。

他にも居留地に行けば取引先がいるということで、売り込み商が問屋を通さずに直接出向けるようになりました。少し前まで間に入る流通を担っていた商人たちの仕事がなくなり、流通そのものが滞ることに。

れきぶろ
れきぶろ

流通が止まるととで必要なものが必要な場所に届かなくなってしまいました。

商品が手に入りにくい状況になればなるほど値段が多少高くても買おうという人たちが出始めることになります。

加えて、当時の日本とヨーロッパでは金と銀の交換比率が著しく異なりました。外国では金貨1枚に対して銀貨が15枚必要なところ、日本では金貨1枚を銀貨5枚で手に入れることができたのです。

れきぶろ
れきぶろ

日本の方が金の価値が低かったんです。

というわけで、大量の金貨が日本から流出。幕府は金に混ぜ物をした質の悪い万延小判を鋳造して事態の収拾を図ろうとしたのですが...

質の悪いお金が出回ったことで、受け取る方は「量をよこせ」という話になりました。

れきぶろ
れきぶろ

金貨に15gの金が入っていた元の小判Aと3gしか入ってない小判B。
『金』という鉱物の信用性があって初めて取引が出来るお金のため、それまでと同じ価値のお金と目指すには小判Bは3倍必要になるわけですね。

以上のような経済面でのトラブルが原因で幕府は異常なインフレ(物価上昇)に見舞われたのです。

ということで、幕末以降は経済が混乱し治安も悪化していたのでした。

尊王攘夷運動の過激化が始まる

幕府が開国に舵を取り始めた一方で、異国に対して不信感を持つお方がおられました。第121代天皇の孝明天皇です。

孝明天皇(Wikipedia)より

「日本で頼りになるのは天皇しかいない」と一部が暴走していきます。その暴走する一部がやがて「異国の人やモノは日本から追い出そう」とする尊王攘夷運動に繋がりました。

尊王や攘夷の詳しい用語解説は下の記事にまとめてあります。

そんな中、異国からの使者や商人たちが惨殺されるような事件が相次ぎます。

  • アメリカ初代駐日総領事のハリスの通訳が惨殺(1860年)
  • 生麦事件島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を惨殺(1862年)
  • イギリス公使館焼き討ち事件 など

こうした事件を受けて、幕府は開市・開港を一部延期せざるを得なくなりました。この開市・開港を延期する際に結んだのがロンドン覚書です。ほかにも遣欧使節を派遣してかなりやり取りをしたようですね。

政局の変化

さて、時は日米修好通商条約が結ばれる直前に遡ります。

幕府では将軍継嗣問題が起こっていました。その有力候補が年長で頭の良い徳川慶喜(1837-1913年)と将軍の血筋で優位な徳川慶福(1846-1866年、のちの家茂)です。

この問題や通商条約の締結をめぐる難問に立ち向かうために大老として就任したのが井伊直弼でした。

結果、徳川慶福が第14代将軍に。また、井伊直弼は反対を押し切って日米修好通商条約を結ぶこととなりました。ところが、条約の内容はかなり幕府が外国に譲歩した内容だったことで孝明天皇の激しい怒りを招いていました。幕府への非難がかなり高まります。

そんな中で井伊直弼は反対派を処罰・弾圧。いわゆる安政の大獄を行いました。中には越前藩の橋本佐内や長州藩士の吉田松陰などが含まれた他、独自で尊攘思想を発展させた水戸学を持つようになった水戸藩も藩主らが蟄居・謹慎を命じられています。

※なお徳川慶喜は、この水戸藩藩主の徳川斉昭の息子です。斉昭も慶喜も蟄居・謹慎を命じられています

この厳しい弾圧に抗議する形で、水戸藩を脱藩した浪士たちが江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺。桜田門外の変が起こりました。

こうして幕府がリーダーシップを取りながら難題に対処しようとする路線が行き詰まりを見せ独裁が崩れ始め、やがて尊王攘夷運動から討幕が生まれることになったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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