Suzuki

Suzuki

再開しました。どうか人に害をなす悪魔的な人間は淘汰されますように主に祈ります。

こんばんは、鈴木です。

 

全部記事を消して新しく再開した当ブログですが、前からブログのアカウント(URL)を変更したかったので、新しいアカウント(URL)を作成しました。

 

このブログはしばらく放置した後、削除する予定です。

 

よろしくお願いします。

 

新しいブログはこちら↓↓

 

 

おはようございます。鈴木です。

 

私の大変かつ幸せな日々の全貌を事細かに書いたり言ったりすると、また妬まれたりするのであまり書きませんが、それでもこれだけは書きたいなと思った事だけは書くようにします。

 

今は本名も通っている教会名も出していないのでそれほど支障も無いでしょう。

 

昨夜は8時頃寝てしまい、夜中の12時半ごろに目を覚ましました。

 

時計を見ると縦に針が並び、「十字架みたいだな」と思いました。

 

横の棒は無かったのですけどね。

 

それから机に座り「何をしようか」と考えていると、「聖書を」という男の声が聞こえてきました。

 

「え?」と聞き返すとやはり「聖書を」と聞こえました。

 

昨日昼間日課の聖書を書いていると、各書物のタイトルを英語でなんというか気になったので、新改訳版聖書のタイトルを創世記からゼパニヤ書まで書いたままでした。

 

ですので今回はそのタイトルの横に線を引き、新共同訳でのタイトルとNIV版のタイトルを書きました。

 

 

面白いなぁと思います。

 

創世記からゼパニヤ書までは新改訳も新共同訳もそれほど違いは無いのですが、新改訳では「伝道者の書」となっている事に対し、新共同訳では「コレヘトの言葉」となっています。

 

「口語訳ではどんな風になっているのかな?」などと興味も湧いてきます。

 

新改訳、新共同訳で「ヨブ記」となっているタイトルはNIVでは「Job」となっています。

 

Jobという英語は日本語では仕事という意味です。

 

検索すると英語の仕事を意味するJobは16世紀頃に出来た単語だそうですが、語源は詳しくは不明だそうです。

 

古いフランス語にあったgobという語に由来するとも言われているそうです。

 

聖書の人名であるJobはヘブライ語由来で、「迫害される」「きらわれる」という意味だそうです。

 

聖書の中のヨブは、大変信仰深い人でしたがとても困難な試練が与えられました。

 

しかしそれを乗り越えると主イエス様からの祝福により、それまで持っていたた財産の何倍もの財を得ました。

 

そうした事から「仕事は大変だけどこなすと対価が得られる」という意味で英語圏でも仕事は「Job」と呼ばれるようになったのではないかなぁ?と私は思います。

 

英語は発音して覚えないと頭に入りませんので、発音記号をマスターしようと思い、あとあと専門書を購入しようと考えていましたが、三省堂の目録を見るとカナ発音つきの英和・和英辞典がありましたので、先にそちらを購入しました。

 

これですけども。

 

 

この辞書はサイズも字も小さいのですがなかなかの優れもので、単語全部にカタカナが書いてあります。

 

創世記のGenesisはヂェニスィスと、アクセントをつける箇所は太くなっています。

 

ノートに書く時はそこの上に丸い点をつけるようにしています。

 

当面はこれで読み方、発音の仕方は満足出来ます。

 

しかし青年に聞くと「小学生用の発音記号の解説書があって、私はそれで発音はマスターしました。」なんて言う物ですから、いずれは私もその小学生用の発音記号の解説書を買わないといけないと思います。

 

それがいつになるかはまさに「神のみぞ知る。」。

 

私の信仰心が強ければ強い程祝福も多くなり、医大への受験の日も近くなるのだと思います。

 

さて、クリスチャンになる前、というよりも教会に通う前から聞こえていた数々の声の話です。

 

最近見た夢の中で、優しそうな女性の声は聖霊様の声だという事がわかりました。

 

「後は私にまかせろ。お前は部屋を片付けろ。」と言って物凄いスピードで移動していった男性の声は、ちょうど私が幼い頃の自分の父親ぐらいのような若さの声なのでイエス様でしょう。

 

今日「聖書を」と仰って下さった男性の声は、それよりも暗い、年配の方の声ですので、神様という事になります。

 

今日は聖霊様と神様の声が良く聴こえます。

 

この事を牧師先生に報告すると、深夜であるにも関わらずすぐに返信がありました。

 

遅い時間にも関わらず、ご祈祷の最中だったようです。

 

なんか申し訳なかったのですが、

 

「霊の見分けをしないと危険です。聖霊様は語りますが、そんなに頻繁ではないです。


聖書に反する声や、なくなった人の声は絶対、悪魔です。


いまも教会で起きて祈っています。

 

騙す専門家、占いの悪魔には、十分気をつけてください。」

 

とメッセージを送って下さいました。

 

私の場合、かなり頻繁に語ってくれるので注意が必要かも知れません。

 

しかし私は独身で、考える時間が多いです。

 

「祈りは一人、誰も見ていない奥の部屋でするように」

 

と聖書にも書かれているように、そうしていると色々な声が聞こえてきます。

 

大体は実際に会った事のある人の声や、今回イエス様、神様、聖霊様だと分かった方々のお声です。

 

20年ほど前は「お前には神がついている!」と威厳のある年配の男性の大きな声が聞こえました。

 

聖書に反する声や、亡くなった方の声は殆ど聴こえません。

 

しかし父が亡くなったばかりの頃は2~3度、父の声も聴こえました。

 

その頃はノンクリスチャンだったので、自分の家にも仏壇を作り供養しようと思っていると

 

「そんな事をするとお盆の時にお前の家と、弟の家の両方の家に行かないといけないじゃないか。」

 

と父の声で聞こえてきたので、まだ近くにいたのでしょう。

 

聖書にも反していないし、むしろ仏壇は作るなと言っているので悪魔では無いです。

 

いけません、これを書いていたら涙が出て来ました。

 

元オウムの麻原氏の死刑が執行されたという知らせを見た時もノンクリスチャンでしたが、ある宗教家が「彼は地獄に行って反省して貰わないといけない」というような記事を見て、「そういう事になるかぁ。そうだよなぁ」と思っていると、麻原氏の声で後ろから「お前ならわかってくれると思ったのにな」と聞こえました。

 

少し可哀そうになり彼の生い立ちを調べると、子供の頃は向学心もあったのですが、視力が弱かったために強制的に盲学校に入れられ、大人になった際に仕方なくヨガ教室を開き、そこで大人や社会の酷さに共感した仲間達と共に宗教団体を作り、世界に対し粛清するためにハルマゲドンを起こそうと様々な凶行に走ったようです。

 

ヨガ教室を開いたり、自分たちで団体を作るのは自由ですが、殺人という罪を何回も犯したのは本当に良くない事です。

 

生きているうちにイエス様の御心に触れ素直に信仰しなかったばかりか、イエス様がおっしゃった「騙すな、殺すな、姦淫をするな、人を殺すな」の教えをことごとく繰り返し破った彼は間違いなく地獄に行っている事でしょう。

 

この記事を書いている時も悪魔となって私に向かい言葉にならない呻きのような物を発して来ましたが、それはシャットアウトしました。

 

やはり悪魔になっているようです。

 

もし違っているのなら、地獄で悔い改め続けて欲しいです。

 

先生は「一度地獄に落ちたらもう無理。恐らくずっと地獄にいると思います。」と仰いましたが、恐らくそうでしょう。

 

現世でも悪魔となって干渉してくるようです。

 

もしも違うのならと、今

 

「イエス様、地獄で麻原彰晃が悔い改め、イエス様への信仰に立ち返りますように、どうかおはからい下さい。主イエスキリストの御名においてお祈り申し上げます。」

 

と口に出して祈りました。

 

すると涙が出てきました。

 

きっと麻原氏の霊も泣いているのかも知れません。

 

しかしこう書いていると異言で「違う」と聞こえてきましたのでそうでは無いと思いますし、仮に一瞬はそうであったとしても今は違い、悔い改めには及んでいないように思います。

 

あんまりその人を思うのも馬鹿らしいと思うので辞めますが、こういった事は良くある事ですので、「人を思うより主を思え」の御言葉通り、イエス様を賛美し、自分のため、仲良くしてくれている人々のために祈るようにします。

 

最近トイレにこのような物を置くようにしました。

 

 

これは先生から頂いた本の中に挟まっていたしおりを写真立てに入れた物ですが、

 

「いつまでも残る物は信仰と希望と愛です。

その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

という聖書の中のコリント人への手紙13章13節の句です。

 

これを見て、トイレの中でQアノンに感化されすぎた兄弟のために祈りました。

 

「イエス様、〇〇兄弟がインフルエンザにかかりフラフラしているのに、マスクをしている私に対して「マスクは意味が無い」、「そんな事はないよ」とマスクの効果を説明すると「それは言い訳」とおかしな事を言って困らせて来ます。

 

他の兄弟姉妹にインフルエンザを移さぬようにマスクをしてくれるよう、無事に癒されおかしな事を言わなくなりますよう、御計らい下さい。主イエスキリストの御名においてお祈り申し上げます。」

 

と口に出して祈りました。

 

トイレの中で祈るのは良くないかもしれませんが、トイレの中に良い物を置く事によってトイレを常に清潔にしようと気持ちが高まったり、日常的に語句を思い出すのにも良いと思って置きました。

 

排泄は日常の事ですし、聖書には排泄物に関しては申命記23:14の

 

あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。

 

に書かれている事しか書かれていないし、トイレに関しては列王記下の10:27に

 

また彼らはバアルの石柱をこわし、バアルの宮をこわして、かわやとしたが今日まで残っている。

 

と書かれている事ぐらいしか出てこないので、偶像では無いにしろ拝まなければ良いかと思います。

 

糞に関しての記述は

 

エゼキエル書 4:15 (口語訳)
すると彼はわたしに言われた、「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。

マラキ書 2:3 (口語訳)
見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。

ヨブ記 20:7 (口語訳)
彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、 彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。

エゼキエル書 4:12 (口語訳)
あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。

ネヘミヤ記 3:14 (口語訳)
糞の門はベテ・ハケレムの区域の知事レカブの子マルキヤがこれを修理し、これを建て直して、そのとびらと横木と貫の木とを設けた。

ネヘミヤ記 2:13 (口語訳)
わたしは夜中に出て谷の門を通り、龍の井戸および糞の門に行って、エルサレムのくずれた城壁や、火に焼かれた門を調査し、

ネヘミヤ記 3:13 (口語訳)
谷の門はハヌンがザノアの民と共にこれを修理し、これを建て直して、そのとびらと横木と貫の木とを設け、また糞の門まで城壁一千キュビトを修理した。

ネヘミヤ記 12:31 (口語訳)
そこでわたしはユダのつかさたちを城壁の上にのぼらせ、また感謝する者の二つの大きな組を作って、行進させた。その一つは城壁の上を右に糞の門をさして進んだ。

イザヤ書 36:12 (口語訳)
しかしラブシャケは言った、「わたしの主君は、あなたの主君とあなたにだけでなく、城壁の上に座している人々にも、この言葉を告げるために、わたしをつかわされたのではないか。彼らをも、あなたがたと共に自分の糞尿を食い飲みするに至らせるためではないか」。

列王記下 18:27 (口語訳)
しかしラブシャケは彼らに言った、「わたしの主君は、あなたの主君とあなたにだけでなく、城壁の上に座している人々にも、この言葉を告げるためにわたしをつかわしたのではないか。彼らも、あなたがたと共に自分の糞尿を食い飲みするに至るであろう」。

列王記下 6:25 (口語訳)
サマリヤに激しいききんが起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀八十シケルで売られ、はとのふん一カブの四分の一が銀五シケルで売られるようになった。


民数記 19:5 (口語訳)
ついでその雌牛を自分の目の前で焼かせ、その皮と肉と血とは、その汚物と共に焼かなければならない。

レビ記 8:17 (口語訳)
ただし、その雄牛の皮と肉と汚物は宿営の外で、火をもって焼き捨てた。主がモーセに命じられたとおりである。

ゼパニヤ書 1:17 (口語訳)
わたしは人々になやみを下して、 盲人のように歩かせる。 彼らが主に対して罪を犯したからである。 彼らの血はちりのように流され、 彼らの肉は糞土のように捨てられる。

 

と14か所もありますが、「トイレで祈るな」とかは書いて無いのでこれで良いかと思います。

 

 

 

そしてトイレで祈ったあと、コンビニに行こうとして

 

「最近はよくコンビニに行く途中に教会の前で先生と会う事が多いから、今回も会うかな?しかし午前の4時だしさすがに会わないだろう。」

 

と思い家を出、教会の前に差し掛かると、何故か私の心に

 

「ジュー」

 

という言葉が浮かんできました。

 

もし先生が教会から出てきたらと仮定して、その挨拶に冗談で「ジュー」と出てのだと思うのですが、「ジューを軽蔑的ニュアンスと捉えられたら嫌だからヤアの方がいいかな」とか考えていた所、

 

教会は私から向かって右側に建っていましたが、左の前方上空に大きな緑色に輝く流れ星が右下に向かって流れて爆発し、粉々になるのを目撃しました。

 

https://x.com/dfuji1/status/1719442177238126593?s=20

 

ここで映像が見れます。

 

肉眼では緑色でした。

 

見た後先生にラインしたのが4時7分なので、時間的にも間違いありません。

 

3年ほど前にも教会の付近で流れ星が爆発し、その破片が千葉県で見つかった事を思い出します。

 

その後コンビニに行き買い物を済ますと、欲しかった400円の物がレシートのクーポンで無料で手に入りました。

 

最近は良い物が真っ当なルートで実質無料で手に入る事が多く、本当にありがたいです。

 

最後に何が言いたいか一言でまとめると、イエス様を信じて聖書を学び、教会に通うといい事があるよ。というお話でした。

 

決して自分の霊感の自慢では無いです。

 

常に神様は私達を見られているという事です。

 

インヌマエル。

 

神様が常に私と共にありますように。

 

 

こんにちは。鈴木です。

 

昨日は同居していた22歳の青年に帰ってもらい、久しぶりに一人で家の中で寝ました。

 

今朝方、夢の中で子供の頃暮らしていた屋敷のガレージを弟が相続したようで、半分をアニメのポスターを貼りまくっていたり、TVやゲーム機を置いて電話をしていました。

 

電話を替わるというので受け取り、「どなたですか?」と尋ねると、学生時代ミッションスクールに通っていたと推測される叔母のような声の人が「せいれいです」と答えました。

 

私は「あのおばちゃんがふざけてせいれいなんて言ってるよ!」と大笑いした後ガレージを見回すと、上の方に十字架らしきものが飾ってありました。

 

弟に「あれどうしたん?」と聞くと、「自分で作った」と答えました。

 

「弟にも信仰心があったんだ...」と納得しながらガレージを出ると、外に赤いユーノスロードスターと思われる車があり、屋根がオープンになっていたのでそのまま車に乗り、布のような物を後部から引き出し屋根に出来る事を確認すると、エンジンをかけて運転しました。

 

運転中、その車にはシートが1つしかなく1人乗り用の車に変わっていた事に気づき「こんな車がある訳がない。まあいいか。BMWも貰ったし...。」と考えながら、夢の中で弟が相続したはずの家をなぜか「あれは私が相続したんだ」と思いながら通り過ぎました。

 

そうした所「親父、なぜ死んだんだ」と言う気持ちが込み上げ一人泣き、誰かが近くで囁いた所で目が覚めました。

 

目が覚めしばらくしてから22歳の青年に夢とは関係ない件でラインをすると、すぐに返信が返って来ました。

 

昨日も「2人で頑張りましょう」と返信があり、「何を2人で頑張れば良いのだろう?」と考えました。

 

しかし、今朝のあの夢はなんだったのでしょうか?

 

聖書には使徒の働き8章4節で主の弟子達を殺害しようとサウロが道を進んでいくと、突然天からの光が彼の周りを照らし、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声が聞こえ、サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと「わたしはあなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」と答えた事が書いてありました。

 

イエス様も尋ねたら名を答えてくれると言う事です。

 

昨日、22歳の青年がを返した後、知り合いの方からの動画の仕事の連絡を受けました。

 

夢の中で聖霊様が現れてくれたように、主、イエス様、聖霊様はいつも私達を愛してくれています。

 

クリスチャンである私達も同じように人を愛さないといけません。

 

(以下執筆中)

 

こんばんは。鈴木です。

 

深夜に取り組みをしながら聖書を書いていると、22歳の青年のためにブログを書こうと思いました。

 

今日ラインで「新天地」という韓国の新興宗教が問題になりニュースでやっていて、それに対しての質問の返答を聖書の御言葉を交えながら説明しようと思いました。

 

しかしそれとは別に、前回の礼拝で牧師が取り上げた「ヨハネの黙示録」の22章7節、

 

「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」

 

という御言葉に関する話を書きたいと思ったので、先に書きたいと思います。

 

これはイエス様がすぐに来られるので、予言の言葉を守るようにという意味と取るのが普通ですが、それとは別にこの言葉で思い出すのが、部屋で一人悩み祈っている時に、

 

「わかった。お前は部屋を片付けろ。」

 

という声が聞こえた後、その声の主(ぬし)はどこかに行くような感じを、これまでの人生で何回かあった事です。

 

最近ではコロナ前に中野区の当時の自分の部屋で

 

「せっかく大崎の某企業の本社で仕事が出来ていたのに、そこの責任者のように働きながら大学に行き、2つの大学を卒業したりしたいのに、変なリーダーのせいで行けなくなってしまった。何よりまだ高卒認定の数学の試験を合格していないけど、今は仕事も出来ない。どうしたらいいんでしょうか。」

 

と祈っていた所、何かが私の近くで

 

「わかった。あとは俺が何とかする。お前は部屋を片付けろ。」

 

と言った後、部屋の向こうの方にビュウとすごいスピードで移動していきました。

 

それよりも数年前、静岡の自分の部屋で横になっていると何かが近づいてきて部屋の壁など関係なくすごいスピードで目の前を通り過ぎて行ったという事があり、中野区の部屋ではそれと同じようなスピードで移動していったので、同じ人?ではないかと思ったのです。

 

静岡の自分の部屋では当時はまだクリスチャンでは無く、縁起担ぎのため小さな龍の像を玄関に置き願をかけていたため(今思えば偶像崇拝です)、「龍が目の前を通り過ぎていった。」と喜んだのですが、中野区では男の声が聞こえた後だったので龍ではない事がわかったのですが、あの逞しくも優しい声は、もしかしたら数年前にガンで亡くなってしまった父の霊なのでは無いかと思っていたのです。

 

しかしもしかしたらそれはイエス様だったのかも知れないと最近は思うようになりました。

 

礼拝中、牧師が恐らくある聖書の箇所を読んでいる途中に

 

「お前は部屋を片付けろ」

 

と言われ、

 

「ハッ!?あの声と同じだ。」

 

と思ったのです。

 

しかし電子版新改訳聖書 第三版を「部屋で」とか「片付け」で検索してもそれらしい箇所は出てきません。

 

YouVersionの口語訳、新共同訳で同じように検索しても出て来ません。

 

私達の牧師は

 

「主イエス様は、クリスチャンやノンクリスチャン、TVやネット、雑誌や漫画も使ってメッセージを送って下さる。」

 

このように教えて下さった事もあり、やはりあの

 

「お前は部屋を片付けろ。」

 

という声はイエス様の声だったのではないかと思うのです。

 

あの力強く優しい声は、亡くなってしまった故郷の声と良く似ています。

 

イエス様が本当の父と呼ばれるのは、もっともだと思います。

 

他にも色々な経験がありますけれど、今日はこの辺で......。

 

鈴木でした。

 

こんばんは。鈴木です。

 

今日も2つ目の記事を書きます。

 

 

愛と信仰を持ってブログ記事を書いていると、心が清らかな方と波長が合うのか、部屋の外から素敵な歌詞がカーステレオから流れてきたり、女子中高生と思われる方々の大きな声が良く聴こえてきたりします。

 

特に音楽系の記事を書いているとそういった事が良くあります。

 

先日はブログ記事は書いてはいませんでしたが、ゲームをしている時でしょうか、若い女の子がオペラ歌手のような歌い方をしているのが何回も聴こえました。

 

あんまり何回も歌ってくれるので、「めっちゃいい声」と聞こえるように独り言を言うと、さらに何回も歌ってくれました。

 

 

前回のブログ記事を書いている途中で必要な物をスーパーに買いにいくため、スーパーで出せるペットボトルとプラ容器を袋に入れて持って向かうため部屋を出て歩いているとすぐ、ジャージ姿の女子中学生が5~6人固まってじっとこっちを見ているのです。

 

そのうちの一人の女の子が私が歩いている側まで来て更に見て来ました。

 

ガン見という言葉にぴったりの見つめぐあいに少し怖くなり、うつむいて横を通り過ぎると一人の女の子が聞き覚えのある歌を歌い出しました。

 

私もNanaという歌唱投稿アプリに投稿した事がある、人気のボカロ曲です。

 

「あの歌、なんていう歌だったかな...。」

 

とずっと考えていましたが思い出せません。

 

スーパーで用事を済ませた帰り道、やっと曲名を思い出しました。

 

「行かないで」

 

というタイトルでした。

 

 

 

私は以前歌い手として動画を投稿していた事もありますが、今日の出で立ちは偶然にも「180℃のヘアアイロンで真っ直ぐにした髪型」「痩せてる体に黒い薄手のパーカーとジーンズにクロスのネックレス」「黒い使い捨てじゃないマスク」と、歌い手にありがちな様相をしていたので、きっと彼女たちも「何者だ」とびっくりしたのでしょう。イヤホンで米津玄師を聴いていたので自分でも笑ってしまうくらい歌い手な感じでした。

 

 

 

今度会ったら声をかけてきていいからねー。

 

クリスチャンになる事をお勧めしてあげるからね照れ

 

警察のお世話になりたくないので自分からは声をかけたくありませんが、ガン見して来たら手を振って声をかけ、伝導した方がいいなと思った50の秋でした。

 

すずき。