名称・寺格
創建
康保3年(966年)に天台僧性空によって創建されました。
本尊
釈迦三尊
みどころ
これぞ山寺というロケーションで、「ラストサムライ」などの多くの映画やドラマのロケ地としても有名です。広大な敷地にたくさんの堂宇が建っていて、懸造の摩尼殿は必見です。山歩きと参拝を同時に楽しめるので、多くの観光客で賑わっています。
アクセス
JR山陽本線「姫路」下車、バス30分+ロープウェイ4分
探訪レポート
姫路駅付近の神姫バスのチケット売り場で、バス+ロープウェイの往復セット(1700円)を購入しました。風が強いのでロープウェイが運休するかもとのことでしたが、とにかく行ってみます。30分ほどバスに乗って、ロープウェイの駅までやってきました。行列に並んでいると、ここでも風のため運休するかもとのアナウンスがありました。登ったものの降りてこられないと困るので、ここで引き返してしまう人も数名いらっしゃいました。私は人生行き当たりばっ旅なので、迷うことはありません。せっかくだから歩いて登れよという心の声は聞こえませんでした。
ロープウェイを降りると、もう山の中です。この書写山圓教寺は、見どころがあり過ぎるので、飽きないレポートを書くのが難しそうです。写真多め、解説少なめで参りますので、ぜひ最後までお楽しみください。
ロープウェイの山上駅の展望デッキ「ミオロッソ書写」からの景色です。関西ですね。絶景ですね。
お寺の入口です。入山料を500円納めます。ある程度のところまでマイクロバスが運行(+往復500円)しています。「一隅を照らす」と刻まれた石碑が建っていますが、これは天台宗のスローガンのようなもので、天台宗の開祖伝教大師最澄の言葉です。世の中の隅っこまで見落とさず、照らして見るようにしましょうというような自己中心的な意味ではなくて、私こそが世の中の隅っこにいても、目立たない力でも、そこで輝いてその隅っこを照らすのが大切ですよという意味です。
マイクロバスには乗らずに、坂道を進みます。すると鐘楼堂がありました。こちらは世界平和と浄佛国土建設を目指して平成4年に造立されました。「慈悲の鐘」と書いて「こころのかね」と読みます。どなたでも打つことができます。
緩やかな土の坂道を進みます。
西国三十三カ寺の観音像が参道の両側に並んでいます。訪問日はバケツと雑巾を持った若い方々が大勢いて、この観音像を磨いていました。自発的ではないのかもしれませんが、大勢でなんだか楽しそうです。仏様を磨くという行為は、善行そのものだと思うので、良い気持ちで清々しい時間が過ごせることでしょう。
仁王門に到着しました。「志ょしや寺」という扁額が架かっています。かつて圓教寺は書写寺という名称だった時代があります。また圓教寺は女人禁制だったので、女性は仁王門の先には行けませんでした。仁王門ですから仁王像がご安置されていて、兵庫県の文化財に指定されています。国の史跡を表す石柱も建っています。
書写山圓教寺を開山した性空上人は貴族の生まれで、出家が許されたのは36歳の頃でした。性空の師僧は、元三大師として有名な18世天台座主の慈恵大師良源です。九州の霧島山、脊振山で修行し、霊場を求めて東へ向かい、播磨国書写山に導かれるように辿り着きます。( ↑ )の左の石碑に「三帝親臨之霊場」と刻まれています。書写山の性空の噂は京まで響き、花山法皇や後白河法皇、後醍醐天皇をはじめ多くの皇族が訪問、寄進を行っています。
文化庁の日本遺産に指定されている「西国三十三観音巡礼」の中でも最大規模の寺院であり、最西端に位置しています。比叡山、大山(鳥取県)、書写山は天台宗の三大道場と称され、書写山は「西の比叡山」と呼ばれていたそうです。天台宗内でも別格本山に位置づけられていますが、実質的な寺格は更に高いと思われます。高齢のため今年退任されましたが、それまで258世天台座主を務めていた大樹孝啓座主は、この書写山圓教寺の出身で、圓教寺の140世長吏(圓教寺だけの表現で管主を長吏と称します)です。宗派の長を輩出する寺院というのは、相応に格が高まるものです。
圓教寺の境内には、多くの堂宇と塔頭寺院があります。こちらは壽量院です。1174年に後白河法皇が1週間参籠したのだそうです。壽量院では5名以上の予約制ですが、精進料理をいただくことができます。
かつて圓教寺境内にあった五重塔の跡地とのこと。残された礎石や絵巻物や火事の記録から、圓教寺には東西2塔の五重塔があったことがわかっているのだそうです。
参道にはお地蔵様もいらっしゃいます。
圓教寺会館とのこと。封鎖されているので、宗門や寺内の方の施設でしょうか。
また塔中寺院がありました。この入口から入っているのか不思議なほど地面が苔生して青々としています。こちらは妙光院で、明治の末年に修理を諦めて建物を取りたたんだのを、後に再建したのだそうです。
切通しのような道です。周囲を見渡すと寺院というよりも山の要素が大きいです。
お地蔵様の横に「三丁」の石杭が建っています。かつては幾つもの登山道があって、それぞれ麓から歩いて登山し参拝していました。
見えにくいですが、門の扉の横に「圓教寺長吏處」と書かれています。通常寺院のトップは住職と称しますが、他にも呼称は管長、管主、山主、方丈、御前などたくさんあります。圓教寺では後白河法皇より賜った「長吏」という呼称となっています。ここは十妙院という塔頭寺院ですが、時代は室町時代まで遡ります。強権的な独裁政治で有名だった足利6代将軍義教は、反乱を恐れて有力な諸大名を謀殺し始めます。播磨を本拠としていた赤松満祐の暗殺計画を知った満祐の娘は、父に将軍の陰謀を告げたことが露見して殺されてしまいます。最終的には足利義教は赤松満祐に殺害されるのですが、満祐が16歳で亡くなった娘のために建てたのがこの十妙院なのです。
こちらは「石造笠塔婆」です。刻まれているのは阿弥陀如来で、鎌倉時代後期のものとして兵庫県の文化財に指定されています。
石塔婆の横には、ショーケースに入ったお地蔵様と思しき仏様がいらっしゃいました。屋根に卍が刻まれています。
この岩塊が「護法石」かと思いきや、左端にちらっと見えているのが「護法石」なのだそうです。なんだかこの岩塊の方にパワーを感じてしまいました。どちらも苔生していて、周囲の風景と一体化していますね。護法石は弁慶の「お手玉石」と呼ばれていて、嘘みたいな話になっています。
圓教寺事務所と書かれています。いわゆる本坊にあたるところです。ひとつひとつの建物が歴史を感じさせる雰囲気を持っています。また、厳しい気候に晒されて傷みが多いのも、山中の寺院として味を醸し出す要素となっています。
ここは「はづき茶屋」というお茶屋さんです。うどん、おにぎり、おでんと、お酒や甘味などがいただけます。参道を歩いてきて、ここでひと息つくのにちょうど良い場所です。多くの方が休憩していました。
放生池です。放生とは、捕らえた生き物を放すことです。仏教では不殺生という戒律に基づいて放生会という法要を行って、寺院の池に生物を放すということが各所で見受けられます。とはいえ、現代の僧侶のどれだけが不殺生の戒律を守ろうとしているかは疑問ですが……。
放生池の隣に三十三所堂があります。西国三十三所観音巡礼は京都・奈良が多いのですが、江戸時代ではそれらを巡礼できるのは限られた一部の人たちだけです。そこで、全国の他地域にも同様の観音霊場を指定して巡礼する「うつし霊場」というものが流行したそうです。川崎大師を訪問した際にレポートしましたが、川崎大師には西国・坂東・秩父の百観音巡礼のお砂踏み所があります。坂東や秩父は、西国三十三観音巡礼の「うつし霊場」ということになります。この「うつし霊場」を更にミニマム化したものが三十三所堂なのだそうです。
「Finally!!」やっと来ました。私は兵庫県神戸市の生まれで、神戸市と明石市に住んでいました。姫路市は少し生活圏が離れていますが、それでも「姫路に大きな山寺がある」ということをいつからか知っていて、その象徴的な風景がこれでした。何十年前? いつかの写真で見た景色が、ここにありました。
「摩尼殿」と称する、圓教寺を代表するお堂です。京都清水寺と同じく懸造の構造で、周囲の山の緑の中から迫りくる迫力があります。
摩尼殿は如意輪堂とも称し、本尊は六臂如意輪観音菩薩で、圓教寺の創建に関わる仏像です。圓教寺の開祖性空が偈文を唱えていると、桜の木の周りを天女が舞ったそうです。そして性空は根のあるまま、生木に観音像を刻みました。岩山の中腹に舞台造りの建物になったのは、そのためだそうです。私は建築には疎いのですが、きっとすごい技術が詰まったお堂なのだと思います。
天水桶に倶利伽羅剣が立っています。天台宗というと法華経や阿弥陀信仰のイメージですが、台密と呼ばれる密教要素も含まれています。
「播磨西国一番納経所」と掲げられています。六臂如意輪観音は秘仏ですが、1月18日の初観音の日に開扉されるそうです。さていよいよ摩尼殿に入ります。
「ラストサムライ」に出てきたような風景です。この景色は1000年前と変わらないはずですね。実に絵になる風景で、私のような者にも幾つもの物語が頭に浮かんで来ます。
摩尼殿の裏側を通って更に境内の奥地に向かいましょう。
地図があったので、くま無く回れる順路を確認します。それにしても山の中なのに大きなお寺で、「西の比叡山」という異名も頷けます。
扁額には「大黒天」の文字。ここは大黒堂です。水引幕がボロボロですが、それだけ山中の気候は厳しいのでしょう。
こちらは塔頭寺院の瑞光院です。紅葉の名所で、門へと続く緩やかな坂道が深紅に染まる風景は、実に雅で観る者の目を引きます。
「杣観音堂」と書かれています。またまた水引幕がボロボロで、忍びない感じがします。杣とは山から切り出した木や、木材を切り出す山のことを言います。
杣観音堂の隣には大仏様がいらっしゃいました。各地の大仏に比べるとそれ程大きくはありませんが、山中にあっては「ああ大仏様だな」と腑に落ちます。自然の石を組んだ台座が迫力あります。
立派な大木で、行き過ぎる人々が見上げていました。木々の間を進む人と対比すると、その大きさがわかると思います。山道なのでスニーカー以上の靴が望ましいですが、登山靴ほどの装備は要らないと思います。
江戸時代に圓教寺を保護した武家である本多家の墓所です。戦国無敵のホンダムこと本多忠勝の子本多忠政は、秀吉の占領時代に荒廃した様子を知り、再建を目指して資金を集めました。本多家の5人の後継者が、それぞれ正方形の仏塔に囲まれた石造りの五輪塔に祀られています。
さて、ここから先もまだまだ見どころの多い圓教寺です。後編をお楽しみにお待ち下さい。
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