長年に渡る夫の投薬ミスと、住み替えカオス道。

 

10年以上、投薬ミスで興奮作用のある薬がストップになった夫。

気持ちが上がらないので、毎日死にたい気分だそうだ。体調も悪い。


胸の痛みも出てきており、病院に行くよう促した。

本人はローン本審査を気にしているが、治療が最優先だ。

審査に落ちて、オンボロマンションに住み続けるのなら、それもまた運命。


住み替えをしようとしたきっかけは、今のマンション老朽化だ。

次に大きな地震が来れば、ひとたまりもないだろう。


私自身、現在の福祉サービスを受けられるようになるまでに、

福祉課や事業所の方達と、信頼関係を長年かけて築いてきた。

ここまで来るのに、15年。

病院とも25年の付き合いで、ようやく治療方針も定まってきたところ。


他の地域に引っ越せばコストは抑えられるが、

また新たに福祉や病院の方達との信頼関係の構築できるまでに、相当な時間とお金、夫への負担がかかる。

また都内の自治体の事業者数や病院数などを調べ、照らし合わせてみると、

やはり今住んでいる地域に住み続けることが、ベストという結果になった。

(友人のお母さんも私と同じ地域で、大変な時に独自のサービスに助けられたそうだ。)


最初に見つかった場所は、立地も築年数も間取りも価格も申し分なしで夫と楽しみにしていた。

しかし仮申し込も済んで、本契約の直前になり、

「やっぱり価格設定が安すぎたからナシ!」と一方的に破棄される流れに。


諦めずに次を探して本契約にこぎつけた場所は、

立地も最高だったが、車椅子生活を送るために細かい間取り変更を要する。

打ち合わせが進むごとに、夫の体調の悪化が加速。


夫は間違って投与されていた薬の副作用で大不穏になり、北斗の拳と化して壁がなくなるほど破壊。

食器も私のものもあらゆるものが壊れ、

必死で止めた私も怪我をしてしまい救急搬送された後、セコムが呼んだ警察の勘違いで保護された。


署内では薬も飲ませてもらえず、また救急搬送。

再び署内に戻って一睡もせず私は猛抗議を続け、警察の方達が疲弊。

誤って保護した警察官がしこたま叱られていた。

(一旦保護に切り替えると、解除するにも様々な手続きがいるようだ。)


迎えに来てくれたヘルパーさんに泣きながら抱きつき、ミスをした警察官は苦笑いしながら謝罪。

私はまだ怒っていたので警察官を関西弁でフルネームで呼び、「今度はちゃんとせえよ!」と言って、聞いていたヘルパーさんは大ウケしながら帰路についた。

家に帰ると、ことの発端の夫は熟睡。キレイなオチである。2度と忘れられない記憶になった。

さすがに私も疲れて、夫も体調悪化を認めてマンションをキャンセル。

頭金は特別に半分返していただいた。優しい業者さんだった。


体調が落ち着いた頃、3度目の正直と契約した時は間取りにかなり問題あり。

私はスタッフ達の横柄さが気に入らなかったが、夫がここにする!と決定。

この時も北斗の拳が何度か登場し、壁が空き続け物も壊れ続けた。


しかし直感が当たり、業者のうち複数名から大小様々な差別を受け、夫もさすがに辟易して破談に。

(厚生労働省と法務局に報告し、頭金は全て返してもらった。

ちなみに引っ越す予定だった場所は今現在、住民掲示板を見るとカオスな環境なようだ。

差別を受けて、結果ラッキーだったかも知れない。)


最後に、地獄に仏の業者さんと契約。

2つ目に契約した先との後に出た物件で、

「ここだったらよかった。。」と、病院帰りに前を通るたび、何度も心の中で呟いていた場所だ。


業者との破談直後にダメ元で電話したら、

ラスト2部屋が残っており、スタッフさんも「ぜひ来てください!」と好感触。

お会いすると天使のような方達で、本当に極楽にいるのではと涙が出そうになった。


ちなみに間取りは今の部屋とほぼ同じで、生活のイメージがしやすい。

バリアフリーへも設計変更可能で、無駄な共有部もなく管理費も低コストと魅力的。

費用もZEHに影響が出ない範囲で考えていただき、最低限で済んだ。

打ち合わせも少ないので夫の負担も少なく、まさに捨てる神あれば拾う神あり。


とはいえ、借金をするのは夫。

彼が仕事を辞めたければ辞めれば良いし、もちろん体調悪化でローンが組めなければ仕方ない。


しかし正しい投薬が行われていれば、数年前には住み替えできて、

私も国を守ってくださる警察の方達に悪態つくこともなく、

低予算・低金利で暮らせたのになあと思わないでもない。


今後は社会保険料、光熱費に食費、医療費、ローン金利と上がるだろう。

せっかく性に合う合唱サークルも見つけたが、続けられるかも分からない。

(絵画教室は本や紙コップなど地味なデッサンを半年続け、約10万円を支払ったが、まだまだ終わりが見えず。

母を見守りながら三角コーナーを何度も描き続けている時には、涙が出ていた。

父も、父の師匠も、美大出身の友人からも、さすがにない!とアドバイスを受け、休会して父に教わることになった。)


まあ、またその時にできることを考えようとは思う。


shishimayu


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