【古代中国の歴史】中国神話から晋王朝崩壊までのあらすじを解説!
古代中国は、神話伝説の時代から三国時代と晋王朝までの約3000年にわたる長い歴史です。
中央集権的な皇帝制度、儒教を中心とする思想体系、漢字文化、農業を基盤とする経済構造などの要素は時代を超えて受け継がれ、中国文明の基盤を形成しました。
一方で、政治制度の発展(封建制から中央集権制へ)、思想の多様化(諸子百家の誕生)、技術革新(青銅器から鉄器へ)、社会構造の変化(貴族社会から官僚制社会へ)などが見られました。
中国の歴史は「統一と分裂」を繰り返しました。強力な王朝による統一の時代と、諸侯や軍閥による分裂の時代が交互に訪れます。秦・漢による統一、三国時代の分裂、晋による再統一、五胡十六国・南北朝の分裂という流れはその典型例です。
古代中国の歴史は、後の中国文明の発展に大きな影響を与えただけでなく、東アジア全体の文化形成にも重要な役割を果たしました。日本などの周辺国は、中国から文字、思想、政治制度、宗教などを取り入れ、独自の文化を発展させていきました。
本記事では、古代中国の歴史のあらすじを紹介していきます。
神話伝説の時代
盤古神話と世界の創造
中国の創世神話の中で最も有名なものは天地開闢の盤古神話です。伝説によれば、宇宙は最初、混沌とした卵のような状態でした。その中で盤古が生まれ、斧で混沌を切り裂き、軽いものは上昇して天となり、重いものは下降して地となりました。
この神話は中国の宇宙観を象徴的に表現しており、天と地、陰と陽の二元論的世界観の基礎になっています。
三皇五帝の時代
中国の伝説的な歴史は「三皇五帝」の時代から始まるとされています。「三皇」は伝説上の三人の聖なる君主で、一般的には「伏羲、女媧、神農」を指します。
伏羲は人類に漁や狩猟を教え、八卦の創始とされています。
女媧は人類を創造し、大洪水の後に天を修復したとされています。
神農は農業と医薬を発明し、様々な植物を試食して薬効を発見したとされています。
「五帝」は伝説上の五人の賢明な君主で、「黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜」を指します。黄帝は中華文明の始祖とされ、多くの発明や制度を創始したとされています。
黄帝と炎帝
黄帝と炎帝は中国の伝説的な古代の帝王であり、中華民族の始祖とされています。
黄帝は姓を公孫、名を軒轅といい、中国文明の基礎を築いたとされています。伝説によれば、黄帝は文字、音楽、医学、算数、天文学など多くの発明や発見を行い、また絹の生産や車輪の使用も始めたとされています。
炎帝(神農氏)は農業の神として崇められ、人々に農耕を教え、薬草を発見したとされています。黄帝と炎帝は当初別々の部族の長でしたが、黄帝が炎帝との戦いに勝利した後、二つの部族は統合され、これが中華民族の起源となったと伝えられています。
堯・舜・禹の時代
堯、舜、禹は中国の伝説的な三人の聖王とされています。徳の高い統治者として理想化され、後世の儒教思想において理想的な君主の模範とされました。
堯は賢明な統治者として描かれ、天文学の知識を用いて暦を作り、農業の発展に貢献したとされています。堯は自分の子供ではなく、徳の高い舜を後継者に選びました。
舜は孝行の模範とされ、困難な家庭環境にもかかわらず徳を失わなかったとされています。舜も自分の子供ではなく、治水の功績があった禹を後継者に選びました。
禹は大洪水を治め、九州(中国の古代地域区分)を整備したとされています。禹は13年間家に帰らず治水工事に専念し、三度自分の家の前を通りながらも入らなかったという逸話が残っています。禹は夏王朝の創始者とされ、中国の歴史的王朝の始まりとなりました。
夏・殷・周王朝
夏王朝:中国最古の王朝?
夏王朝(紀元前2070年頃-紀元前1600年頃)は中国最古の王朝とされていますが、その実在性は考古学的証拠の不足から疑問視されてきました。しかし、近年の考古学的発掘により、この時期に相当する高度な青銅器文明の存在が確認されており、夏王朝の実在を支持する証拠が増えています。
夏王朝は禹によって創建されたとされています。禹は治水の功績により舜から王位を譲られ、世襲制の王朝を確立しました。夏王朝は17代、約471年間続いたとされています。
夏王朝の統治構造は初期の封建制度の特徴を持っていたと考えられています。中央集権的な要素と地方分権的な要素が混在し、王は宗教的儀式を執り行い、軍事を指揮し、裁判を行いました。
最後の王である桀は暴君として描かれ、商(殷)の湯王に打ち負かされて夏王朝は滅亡しました。
殷(商)王朝:甲骨文字と青銅器文明
殷王朝(紀元前1600年頃-紀元前1046年頃)は、中国の歴史上確実に存在したことが考古学的に証明されている最古の王朝です。
殷王朝の最も重要な考古学的発見は甲骨文字です。これは亀の甲羅や動物の骨に刻まれた文字で、占いの記録として使用されていました。甲骨文字は漢字の起源となる最古の体系的な中国の文字です。
殷王朝は高度な青銅器文明を発展させました。儀式用の器や武器など、精巧な青銅製品が多数製作されました。また、この時代には既に複雑な社会階層が形成されており、王族、貴族、平民、奴隷などの階層が存在していました。
殷王朝の宗教は祖先崇拝と自然神崇拝が中心でした。王は最高祭司としての役割も果たし、神々や祖先との交信を担っていました。
最後の王である紂王は暴君として描かれ、周の武王に打ち負かされて殷王朝は滅亡しました。
周王朝:封建制度と礼制の確立
周王朝(紀元前1046年頃-紀元前256年)は中国史上最も長く続いた王朝であり、西周(紀元前1046年-紀元前771年)と東周(紀元前770年-紀元前256年)に分けられます。
西周時代、「周の武王」は殷を打倒した後、「封建制度」を確立しました。これは王の親族や功臣に土地と人民を与え、諸侯として地方を統治させる制度です。諸侯は中央の王に忠誠を誓い、軍事的支援や貢物を提供する義務を負いました。
「周公旦(周武王の弟)」は、周王朝の政治制度と文化の基礎を築きました。「礼」の概念を発展させ、社会秩序を維持するための行動規範を確立し、儒教の基本的な価値観が形成されました。
西周は紀元前771年に「犬戎」という異民族の侵攻により都が襲撃され、幽王が殺されて崩壊しました。その後、平王が都を洛邑(現在の洛陽)に移し、東周時代が始まりました。
東周時代は春秋時代(紀元前770年-紀元前476年)と戦国時代(紀元前475年-紀元前221年)に分けられます。この時期、周王室の権威は衰え、諸侯国が実質的な権力を持つようになりました。
春秋時代には、「晋、楚、斉、秦、宋」などの強国が台頭し、覇権を争いました。この時代には「春秋五覇」と呼ばれる五人の覇者(斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、宋の襄公、秦の穆公)が現れました。
戦国時代になると、諸侯国間の戦争はさらに激しくなり、最終的に「秦、楚、燕、韓、趙、魏、斉」の「戦国七雄」に集約されました。この時期、各国は富国強兵策を推進し、中央集権的な改革を行いました。
東周時代は政治的に混乱していましたが、文化的・思想的には非常に豊かな時代でした。儒家、道家、法家、墨家など様々な思想学派が生まれ、「百家争鳴」の状況が生まれました。また、鉄器の普及や貨幣経済の発展など、技術的・経済的な進歩も見られました。
春秋戦国時代
春秋時代の諸侯国間の争い
春秋時代(紀元前770年-紀元前476年)は、周王室の権威が衰退し、諸侯国が実質的な権力を持つようになった時代です。この時期、中国は約170の諸侯国に分かれていましたが、次第に大国に吸収・併合され、晋、楚、斉、秦、宋などの強国が台頭しました。
諸侯国間の争いは激しく、「春秋五覇」と呼ばれる五人の覇者が現れました。斉の桓公は最初の覇者として小国を保護し、周王室を尊重する政策を取りました。晋の文公は中原地域で強大な勢力を築き、楚の荘王は南方で勢力を拡大しました。
この時代の特徴として、諸侯国間の会盟(同盟を結ぶための会議)が頻繁に行われたことが挙げられます。また、戦争においても一定のルールが存在し、貴族同士の戦いという性格が強かったです。
孔子と儒家思想の誕生
春秋時代の混乱の中で、様々な思想家が現れました。その中でも最も影響力を持ったのが「孔子(紀元前551年-紀元前479年)」です。孔子は魯の出身で、理想的な社会秩序の回復を目指しました。
孔子の思想の核心は「仁」(思いやり、人間愛)と「礼」(適切な行動規範)です。彼は人間関係における五つの基本的な関係(五倫:君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)を重視し、それぞれの関係における適切な行動を説きました。
孔子は生前、政治的には大きな成功を収めませんでしたが、彼の教えは弟子たちによって『論語』としてまとめられ、後世に大きな影響を与えました。孔子の思想は後に儒家思想として発展し、中国の正統思想となりました。
戦国時代の七雄
戦国時代(紀元前475年-紀元前221年)になると、諸侯国間の戦争はさらに激しくなり、最終的に秦、楚、燕、韓、趙、魏、斉の「戦国七雄」に集約されました。
秦は西方の辺境地帯から台頭し、商鞅の変法(法治主義に基づく改革)により強大な国力を築きました。魏は中原地域で最初に強大化し、李悝の改革により一時は最強国となりましたが、後に衰退しました。趙は北方の騎馬民族と接する地域で、騎兵を重視した軍事力を持っていました。
楚は南方の大国で、独自の文化を持ち、領土も広大でした。斉は東方の海岸地域に位置し、商業と海上交易で栄えました。韓は中原の小国でしたが、鉄器生産で知られていました。燕は北東部に位置し、遊牧民族との交易で発展しました。
諸子百家の思想
戦国時代は思想的に非常に豊かな時代で、様々な学派が生まれました。これを「諸子百家」(様々な思想家と学派)と呼びます。
儒家は孔子を祖とし、孟子と荀子によって発展させられました。
孟子は人間の本性は善であるとし、王道政治(徳による統治)を主張しました。
荀子は人間の本性は悪であるとし、礼による教化を重視しました。
道家は老子と荘子を代表とし、自然との調和や無為(余計な行為をしないこと)を重視しました。
法家は商鞅、韓非子らを代表とし、厳格な法律と刑罰による統治を主張しました。
墨家は墨子を祖とし、兼愛(差別のない愛)と非攻(戦争反対)を説きました。
名家は言葉と実体の関係を研究し、論理学を発展させました。
陰陽家は宇宙の二元的原理を説き、自然哲学を発展させました。

軍事技術と戦略の発展
戦国時代には軍事技術と戦略が大きく発展しました。鉄器の普及により、武器や農具が青銅器から鉄製に変わり、生産力と軍事力が向上しました。また、騎兵の導入や弩(強力な弓)の発明など、新しい軍事技術が登場しました。
この時代には大規模な常備軍が登場し、貴族による戦いから庶民を含む大規模な軍隊による戦いへと変化しました。また、城壁や防御施設の建設技術も発展し、各国は長大な防御壁を築きました(後に秦の始皇帝によって万里の長城として統合されます)。
戦略面では、孫子の『孫子兵法』をはじめとする兵法書が登場し、戦争の理論的研究が進みました。外交面では、合従(連合して強国に対抗する)と連衡(強国と同盟を結ぶ)という二つの基本戦略が展開されました。

秦と漢王朝
秦の統一と中央集権体制
戦国時代の混乱は、最終的に西方の辺境国家であった秦によって終結されました。紀元前230年から紀元前221年にかけて、秦は戦国七雄を次々と滅ぼし、中国を統一しました。
秦の成功の背景には、商鞅をはじめとする法家思想に基づく改革がありました。秦は厳格な法治主義を採用し、軍功による爵位制度を導入して社会の流動性を高めました。また、郡県制を実施して中央集権体制を強化し、度量衡・文字・貨幣・車軌の統一など、様々な標準化政策を行いました。
「秦の始皇帝(嬴政)」は中国初の皇帝として、強大な権力を持ちました。彼は「皇帝」という称号を創始し、自らを「始皇帝」(最初の皇帝)と名乗りました。秦は中央集権的な官僚制度を確立し、丞相、御史大夫、太尉という三公を頂点とする行政機構を整備しました。
秦の始皇帝は在位中に様々な巨大プロジェクトを実施しました。
最も有名なのは万里の長城の建設です。これは北方の遊牧民族である匈奴の侵入を防ぐために、既存の防御壁を連結・拡張したものです。
また、始皇帝は全国に道路網を整備し、首都・咸陽に壮大な宮殿を建設しました。さらに、死後の世界のために巨大な地下墓所を造営しました。この墓からは有名な「兵馬俑」(等身大の陶製の兵士と馬の像)が発掘されています。
始皇帝は思想統制も行い、儒家の経典を中心とする書物を焚書し、儒者を生き埋めにしたとされる「焚書坑儒」を行いました。これは法家思想に基づく政策で、思想的統一を図るためのものでした。
しかし、これらの巨大プロジェクトは民衆に重い負担を課し、不満を高めることになりました。始皇帝の死後、各地で反乱が起こり、わずか15年で秦王朝は滅亡しました。
前漢の繁栄と発展
秦の滅亡後、「劉邦(高祖)」が項羽との争いに勝利し、紀元前202年に漢王朝を建国しました。漢王朝は「前漢(西漢)」と「後漢(東漢)」に分けられ、前漢は紀元前202年から紀元後8年まで続きました。
前漢の初期、高祖は秦の厳格な法治主義を緩和し、「与民休息」(民に休息を与える)政策を採用しました。また、郡国制(中央直轄の郡と諸侯王国の併存)を採用し、功臣や親族を諸侯王に封じました。
文帝と景帝の時代(紀元前180年-紀元前141年)は「文景の治」と呼ばれる平和で繁栄した時代でした。両皇帝は節約を重んじ、刑罰を軽減し、農業を奨励しました。
武帝(紀元前141年-紀元前87年)の時代に前漢は最盛期を迎えました。武帝は積極的な対外政策を採り、匈奴を撃退し、領土を大きく拡大しました。また、シルクロードを開拓し、西域(中央アジア)との交易を促進しました。
国内では儒教を国教化し、太学(国立大学)を設立して儒学を学ぶ人材を育成しました。また、塩鉄専売制など様々な専売制度を導入して国家財政を強化しました。
新(王莽政権)の改革と失敗
前漢の末期、外戚(皇后の親族)の王氏が権力を握りました。その中で台頭したのが「王莽」です。
王莽は紀元後8年に幼帝を廃して自ら皇帝となり、国号を「新」と改めました。
王莽は儒教の理想に基づく様々な改革を実施しました。土地の国有化(王田制)、奴隷売買の禁止、貨幣制度の改革、官制の改革などを行いました。しかし、これらの急進的な改革は既得権益を持つ貴族や地主の反発を招き、実施方法も現実離れしていたため、社会的混乱を引き起こしました。
さらに、自然災害による飢饉も重なり、各地で農民反乱が発生しました。「赤眉の乱」と呼ばれる大規模な反乱が王莽政権を追い詰めました。紀元後23年、王莽は反乱軍に殺され、新王朝は滅亡しました。
後漢の再興と衰退
王莽の死後、前漢の皇族である「劉秀(光武帝)」が即位して漢王朝を再興しました。これが後漢(東漢)で、紀元後25年から220年まで続きました。劉秀は都を洛陽に移し、混乱した社会秩序を復興しました。
後漢の初期は比較的安定していましたが、中期以降、宦官(皇帝に仕える去勢された男性官僚)と外戚の権力闘争が激化しました。「桓帝」と「霊帝」の時代(146年-189年)には、宦官が政治を専横し、これに対抗する儒学者たちが弾圧される「党錮の禁」が行われました。
また、この時期には科学技術も発展し、「張衡」による地震計の発明や、「蔡倫」による製紙法の改良などが行われました。仏教も中国に伝来し、徐々に広まり始めました。
後漢末期の184年、張角による「黄巾の乱」が発生しました。この反乱自体は鎮圧されましたが、その過程で各地の軍閥が力をつけ、中央政府の権威は失墜しました。
189年、霊帝の死後、宦官と外戚の対立が激化し、「董卓」という軍閥が首都を制圧して実権を握りました。これに対抗して各地の軍閥が蜂起し、中国は群雄割拠の時代に入りました。その後「曹操、劉備、孫権」の三者が勢力を確立し、後漢は220年に滅亡して三国時代へと移行しました。
三国時代と晋王朝
魏・呉・蜀の三国分立
三国時代(220年-280年)は、中国が魏・呉・蜀の三つの国に分かれた時代です。220年に曹操の子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、221年に劉備が蜀(蜀漢)、229年に孫権が呉の皇帝としてそれぞれ即位しました。
魏は三国の中で最も広大な領土と人口を有し、華北の肥沃な平原を支配していました。蜀は現在の四川省を中心とする地域に位置し、三峡や山岳地帯という天然の要害に守られていました。呉は長江流域を支配し、海上交通の利点を活かして経済的に繁栄していました。
三国は互いに覇権を争い、特に魏と蜀の間では激しい戦いが繰り広げられました。蜀の丞相・諸葛亮は五回にわたる北伐を行いましたが、いずれも成功せず、234年に病死しました。
三国時代は戦乱の時代でありながら、文化的にも重要な時期でした。儒学が尊重され、「陳寿」による『三国志』が編纂されました。また、科学技術も発展し、馬鐙の発明や、医学者の華佗による麻酔法の開発などが行われました。
三国時代の英雄たち
三国時代は多くの英雄を生み出し、その物語は後世に大きな影響を与えました。
魏の曹操は優れた政治家・軍事家であり、詩人としても知られていました。彼は中央集権体制を強化し、屯田制を実施して軍事力と食糧生産を確保しました。
蜀の劉備は漢王朝の血を引くことを正統性の根拠とし、仁義を重んじる君主として描かれています。彼の軍師・諸葛亮(孔明)は優れた政治家・軍事家として知られ、「臥龍」と称されました。諸葛亮の「出師表」は名文として知られています。
呉の孫権は50年以上にわたって呉を統治し、「江東の虎」と呼ばれました。彼は長期的な視野を持ち、魏と蜀の間で巧みな外交を展開しました。
その他にも、魏の武将・張遼、蜀の武将・関羽や張飛、呉の武将・周瑜や陸遜など、多くの英雄が活躍しました。これらの人物の物語は、14世紀に「羅貫中」によって書かれた小説『三国志演義』によって広く知られるようになりました。
晋の統一と八王の乱
263年、魏の「司馬昭」は蜀を滅ぼしました。265年、司馬昭の子の「司馬炎(武帝)」が魏の皇帝から禅譲を受けて晋王朝を建国しました。司馬炎は280年に呉を滅ぼし、約100年ぶりに中国を統一しました。これが晋(265年-316年)です。
晋は統一後、「占田制」と「課田法」を実施し、土地制度の改革を行いました。また、匈奴や鮮卑などの異民族を内地に移住させる政策を採りました。
しかし、武帝の死後、皇位継承を巡って皇族間で争いが起こり、「八王の乱」(291年-306年)が発生しました。八王の乱では、汝南王司馬亮、楚王司馬瑋、趙王司馬倫、斉王司馬冏、長沙王司馬乂、成都王司馬穎、河間王司馬顒、東海王司馬越の八人の王が権力闘争を繰り広げました。
この内乱により晋の国力は低下し、異民族の侵入を招く結果となりました。316年、匈奴の劉曜が洛陽と長安を陥落させ、晋は滅亡しました。
このころの晋を西晋と呼びます。
五胡十六国の時代へ
八王の乱で、各王は異民族の力を利用したため、異民族が力をつけました。西晋滅亡後、中国北部は「五胡十六国」と呼ばれる分裂状態に陥りました。
「五胡」とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの異民族を指します。「十六国」とは北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超えます。
五胡十六国時代(304年-439年)には、中国北部で様々な国家が興亡を繰り返しました。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は成漢、前秦、後涼を、羌は後秦を、漢人が前涼、冉魏、西涼、北燕をそれぞれ建てました。
この時代の最も重要な出来事の一つは、前秦の苻堅が東晋を攻撃した「淝水の戦い」(383年)です。数的優位にあった前秦軍は東晋軍に大敗し、これを機に前秦は崩壊し、五胡十六国時代は新たな局面を迎えました。
最終的に、鮮卑の拓跋部が建てた北魏が439年に華北を統一し、五胡十六国時代は終焉を迎えました。
東晋の南遷
西晋滅亡後、司馬睿(元帝)が建康(南京)に逃れて東晋を建国しました。東晋(317年-420年)は長江以南の地域を支配し、北方からの難民を受け入れました。
東晋時代には、北方から南下した貴族(門閥)が政治的・文化的に大きな影響力を持ちました。この時代、玄学(老荘思想)が流行し、書道や絵画などの芸術も発展しました。特に王羲之の書や顧愷之の絵画は高く評価されています。
東晋は北方の五胡十六国と対峙し、時に軍事的衝突も起こりましたが、基本的には長江という天然の障壁に守られて存続しました。前秦の苻堅による侵攻を淝水の戦いで撃退したことは、東晋の最大の軍事的勝利でした。
しかし、東晋も次第に衰退し、420年に劉裕によって宋が建国され、滅亡しました。これにより中国は南北朝時代へと移行していきました。
中国の歴史書について
中国では、新しい王朝が成立すると正統性を謳うために、前王朝の歴史を編纂しています。
編纂された各王朝の歴史書を「正史」と呼び、全部の正史を二十四史と言います。
正史は紀伝体で書かれており、各皇帝の「本紀」、臣下の「列伝」で構成されています。
前漢の時代に「司馬遷」は、三皇五帝から前漢武帝の時代の歴史を綴った「史記」を編纂しました。
後漢時代には「班固」が前漢時代の歴史を綴った「漢書」を編纂しました。
晋の時代に「陳寿」が「三国志」、宋の時代に「范曄」が「後漢書」を完成させています。
その後、唐の「房玄齢」が「晋書」、南朝斉の「沈約」が「宋書」を著しました。




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