金ヶ崎の戦いとは?「小豆の袋」と起きた原因や戦いの経緯・誰が戦ったのかを解説!

金ヶ崎の戦いは、織田信長が直面した大きな試練のひとつです。1570年、越前国の地で織田軍と朝倉軍が衝突し、信長の野望に一時の暗雲をもたらしました。

この合戦は、裏切り、英雄的な撤退、そして将来の天下統一への布石となる様々なドラマを含んでいます。

この記事では、その背景、経過、そして戦いが後世に与えた影響について、詳しく解説していきます。ぜひ、ご一読ください。

目次

金ヶ崎の戦いとは?戦いの場所と起きた経緯

金ヶ崎の戦いは、1570年(元亀元年)に現在の福井県敦賀市付近で織田信長と朝倉義景の間で起こった合戦です。この地は、越前国の一角に位置し、戦略的にも重要な場所でした。戦いが発生した背景には、信長の野望と朝倉家の抵抗が絡み合っています。

信長は、1568年に足利義昭を擁して上洛し、京都を掌握。その後、全国統一に向けて勢力を拡大していました。しかし、その途中で越前国を治める朝倉義景との対立が浮上します。朝倉家は古くからの大名であり、信長の勢力拡大を良く思っていませんでした。

元亀元年4月20日、信長は約3万の軍勢を率いて京都を出発。この軍事行動の公式な目的は、若狭国(現在の福井県小浜市付近)の武田家を討伐することにあったとされています。

しかし、実際のところ、信長の狙いは朝倉義景を討つことにありました。この動きは、朝倉家だけでなく、信長と同盟関係にあった浅井長政にも大きな影響を与えることになります。

戦いの前哨戦として、信長軍は敦賀口に位置する金ヶ崎城を攻略。成功を収めますが、この行動が朝倉義景による反撃を誘発することとなりました。

このようにして、金ヶ崎の戦いは、織田信長の越前征伐の野望と、それに対する朝倉義景の防衛戦がきっかけとなり発生しました。

金ヶ崎の戦いにおける浅井氏の立場と裏切り

信長軍は、朝倉軍の本拠地に向けて進軍を続けていましたが、敦賀近辺で浅井長政の裏切りの知らせを受け取ります。

浅井長政は信長の同盟者であり、信長の妹・お市の方と結婚するなど、家同士の結びつきは強かったです。

しかし、信長の越前侵攻と朝倉氏討伐の動きは、浅井氏にとって受け入れがたいものでした。朝倉氏とは長い同盟関係にあり、その裏切りは長政にとって重大な決断を迫るものでした。

結局、長政は信長に対して反旗を翻す道を選びます。この裏切りは、金ヶ崎の戦いを通じて織田軍の窮地を招くことになり、後の戦国時代の流れに大きな影響を与えました。

金ヶ崎の戦いではどう戦った?激突の流れと「朽木越え」

信長は、自軍が挟撃される可能性が高まったため、撤退を決断します。この撤退は、ただの撤退ではなく、敵に追撃されながらの苦難の行軍でした。

信長は、若狭国(現在の福井県)を経由して京都へ向けて撤退します。この際、信長は朽木越えと呼ばれるルートを利用し、朽木元綱の協力を得てなんとか京都にたどり着きます。

この撤退路は、越前国(現在の福井県)から若狭国(同じく福井県)を経由し、京都へと至る山間部を越えるものでした。織田信長は浅井長政の裏切りにより、敵に包囲される危機的状況に陥っており、安全な撤退路を模索していました。

この際、朽木元綱の協力を得て、苦難の朽木越えを敢行し、京都に無事帰還することができました。

朽木元綱は、1570年の金ヶ崎の戦いの時点で、近江国(現在の滋賀県)の朽木谷を治める地元の有力な豪族でした。

元綱は織田信長との直接的な敵対関係にはなく、中立的な立場を保っていました。しかし、彼の領地は、信長が安全に撤退するために選ばれた「朽木越え」の経路に位置していたため、戦略的に重要な役割を担っていました。

信長が朽木越えを決行した際、元綱は信長の通過を許可し、さらには協力したとされています。この協力により信長は無事京都に帰還できました。

信長軍の中で重要な役割を果たしたのは、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。徳川家康が加わっていたという説もあります。藤吉郎は信長軍の殿(しんがり)を務め、信長軍が安全に撤退できるよう、追手と戦いながら最後尾を守りました。

撤退戦は、敵に追撃される中での移動を余儀なくされるため、非常に難しいとされています。撤退中の軍は組織的な防御が困難になり、士気が下がりやすく、敵による奇襲や挟撃のリスクが高まります。

しかも金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りにより、朝倉軍と前後からの攻撃に晒されることになりました。

このような状況下で、豊臣秀吉が殿軍を務め、追撃する敵から主力部隊を守りつつ、織田軍を安全な場所へと導いたことは、極めて高度な軍略と優れた指揮能力を示しています。

撤退戦が難しいと言われる中で、このように成功させた例は、指揮官の能力が試される大きな瞬間であると言えるでしょう。

小豆の袋のエピソード・逸話

金ヶ崎の戦いでは、「小豆の袋」という逸話があります。小豆の袋とは、日本の伝統的な風習や物語に登場するアイテムです。

この話によると、信長の妹・お市の方が、信長に対し、浅井長政の裏切りを暗示するために、小豆が入った袋を送りました。袋の両端を縛ることで、「挟み撃ち」の危機を伝えたと言われています。

この逸話は史実ではなく、後世に創作されたものと考えられています。それでも、この物語は、日本の歴史の中で伝えられる巧妙な伝言の手段として、また、信頼と裏切りの象徴として、多くの人々に知られています。

金ヶ崎の戦いは後世でどのように評価されている?

金ヶ崎の戦い後、織田信長は撤退に成功しましたが、この戦いは彼にとって大きな試練となりました。戦後処理の一環として、信長は豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)を始めとする功績ある武将たちに恩賞を与えました。

特に秀吉は、この戦いでの活躍が認められ、信長からの信頼を一層深めることになります。また、この戦いを経て、信長は戦略の見直しや、同盟関係の再構築に迫られることになりました。

後世での金ヶ崎の戦いの評価は複雑です。一方で、織田信長の危機管理能力や、秀吉の軍略が光る戦いとして評価され、信長の天下統一への道のりにおける重要な節目と見なされています。

しかし一方で、浅井長政の裏切りや、戦いの中で見せた信長の決断が、彼の統治スタイルや人間関係における課題を浮き彫りにしたとも言われています。

金ヶ崎の戦いは、織田信長にとっては一時的な挫折であったかもしれませんが、その後の信長の行動や、秀吉の活躍を促す契機となりました。この戦いを通じて、彼らはさらに成長し、歴史にその名を刻むことになります。

金ヶ崎の戦いは、日本の戦国時代を彩るエピソードの一つとして、今も多くの人々に語り継がれています。

金ヶ崎の戦いが起きた場所や関連する場所へのアクセス方法

金ヶ崎の戦いが起きた場所や関連する場所へアクセスする方法は以下の通りです。

これらの場所を訪れることで、金ヶ崎の戦いの歴史を深く理解するとともに、戦国時代の雰囲気を体感することができるでしょう。

金ヶ崎城跡

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡は、この戦いの舞台となった場所です。敦賀駅からバスで約20分、金ヶ崎バス停で下車後、徒歩で約10分の位置にあります。敦賀駅はJR北陸本線や小浜線が通っており、アクセスしやすいです。

敦賀市歴史博物館

戦いに関する資料や当時の歴史背景を学べる場所です。敦賀駅から徒歩約15分の場所に位置しており、金ヶ崎の戦いについて詳しく知ることができます。

朽木越

信長が撤退時に利用したとされるルートです。現在はハイキングコースとして整備されており、自然の中を歩きながら歴史を感じることができます。最寄り駅はJR湖西線の近江今津駅で、そこからバスでアクセス可能です。

一乗谷朝倉氏遺跡

朝倉義景の居城があった一乗谷は、福井市内にあります。金ヶ崎の戦いの相手方、朝倉義景に関する多くの遺跡や資料があり、福井駅からバスで約30分で到着します。

小谷城跡

浅井長政の居城であり、金ヶ崎の戦いの一因となった場所です。滋賀県長浜市に位置し、JR長浜駅からバスで約30分、そこから徒歩で約20分でアクセスできます。この城跡からは、美しい琵琶湖を望むことができます。

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