バトゥ 人物伝 ステータス
兄がいたが病弱であったため、次男のバトゥが後継者の指名される。
祖父のチンギスが父ジョチの謀反を疑って軍を領内に向けた時ジョチが死亡、バトゥはただちの使者を送ってチンギスにジョチの死亡を伝え軍を撤退させた。
以後バトゥはジョチ家の当主となり領内を治める。
モンゴル帝国二代目ハーンのオゴデイは西方遠征を計画、バトゥは領内がモンゴル帝国の西の果てだったこと、チンギスの孫世代では年長だったこともあり遠征軍の総司令官に指名された。
1236年から西方遠征に出陣した遠征軍は、ヴォルガブルガール→キプチャク草原に侵攻し屈服させる。
そのままルーシ(ロシア)方面に進行するとルーシ諸侯を次々と攻め落とした。
その最中バトゥは、オゴデイ家の長男グユクと軍略などの意見が対立し険悪となる。
このことを知ったオゴデイは、息子グユクと一部王子たちをモンゴルに呼び戻した。
ひと悶着あった遠征軍ではあったが遠征は継続され、ついにキエフ公国の首都キエフ(元キーウ)を攻め落とす。
そしてついにバトゥ以下遠征軍はヨーロッパの大地にはいり、カルパチア山脈で軍団を分けてポーランド方面とハンガリー方面に同時侵攻。
ポーランド方面軍はチャガタイ家のバイダルがポーランド、ドイツ騎士団を粉砕した。(ワールシュタッドの戦い)
ハンガリー方面軍の本隊率いるバトゥと副司令官スブタイは、ハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍6万と交戦、スブタイの迂回奇襲作戦が決定機となってハンガリー軍を撃破する。(モヒの戦い)
バトゥと遠征軍はオーストリアのウィーンをうかがうとこまできたが、大ハーンオゴデイ死去の知らせを受けてバトゥは遠征軍を撤退させた。
モンゴル帝国内では次期ハーンにオゴデイの息子グユクをおす声が大きかったが、バトゥは父ジョチの頃からの争いやグユクとの折り合いの悪さもあって有力者会議「クリルタイ」参加を見送る。
バトゥの不参加やモンゴル帝国内の政治闘争もあってグユク大ハーン即位には5年の歳月を要した。
しかしグユクは即位後わずか2年で他界し、オゴデイ家の信用も失墜したため、次期大ハーンはトルイ家のモンケが有力となり、仲の良かったバトゥも快く快諾する。
その後は領内の政治に力を入れて本営をキプチャク草原の「サライ」に定め、家族に東西の統治を任せキプチャクハン国の土台をつくった。
1256年、48歳で亡くなった。
バトゥの評価 逸話
若くして聡明さは良く知られており、祖父のチンギスからは「孫たちの統括をたのむ。」とまで言わしめた大器です。
(チンギスを以って冷静な気性、大きな器量、そして烈しさを兼ねていると評価されたといいます。)
さらにバトゥ、そして盟友でもあるモンケはともに数か国語を話せたそうです。
出生の問題もありモンゴル帝国内において肩身が狭かった父ジョチは、いつからか遠くヨーロッパ方面の遠征を夢見ました。
ジョチは不遇のまま亡くなりましたが死の間際、息子のバトゥに西方遠征の夢を託します。
そしてバトゥは父のヨーロッパ遠征の夢を、完全ではないにしろ自身の手で成し遂げました。
西方遠征にはモンゴル帝国のそれぞれの王家から多数王子たちが従軍し、歴戦の名将スブタイが副司令官となったことからも規模の大きさがうかがえます。
遠征ではのちの統治を考えてなるべく諸都市に降伏を促しましたが、祖父のチンギスと同様に反目を貫いた都市は徹底的に破壊と略奪を行いました。
(特にリャザンという都市では攻城兵器が用いられて、町は瓦礫と遺体で埋め尽くされたそうです。)
ヨーロッパ遠征ではヨーロッパ諸国に征服戦を行ったことで、バトゥは歴史評価が分かれる人物ではあります。
ヨーロッパ地域からは野蛮人とみられ、「タタールのくびき」として一定数の人々に忌み嫌われているのも事実です。
モンゴル帝国は戦果を派手に誇張して宣伝を行ったことからも、その政策はのちの歴史観を悪くした側面もあると私は思います。
しかしモンゴル帝国の武名を西方ヨーロッパ地域にとどろかせ、また戦後は何世紀にわたり繫栄したキプチャクハン国の基礎を築いて名君として政治力も発揮しました。
また仲間たちの融和につとめ普段は寛大であると同時に、国の統治に悪い影響がある勢力には厳格な態度でのぞみます。
その統治の姿は、モンゴル人から「サインハン」(賢明なる王)とまでうたわれ後世まで称えられました。
結局大ハーンは親友のモンケに譲りましたが、バトゥが大ハーンとなって長生き出来たなら、また違った世界線があったかもしれませんね。
(モンケを継いだフビライは中華地域に力を注ぎましたから、バトゥならロシア地域に力を注いだことでしょうし、今と違った情勢になっていそうです。)