賈詡 文加(大尉) 鍾繇 元常(太傅)

賈詡

賈詡 文加(かく ぶんか)人物伝 ステータス

賈詡ステータス

147年、涼州武威郡(りょうしゅうぶいぐん)で生まれる。

若いころから智謀に長け、曹操に仕えるようになるまで董卓→李傕→張繡(ちょうしゅう)の順に仕えた。

董卓が呂布に暗殺されると、都長安を離れていた李傕を補佐、策を授け呂布を追い出して李傕の政権奪取を助ける。

しかし献帝が都長安を離れると、賈詡も李傕に失望し都を離れた。

その後同郷の張繡の傘下に入り参謀となる。

197年曹操が張繡の居城宛城に侵攻、ここで賈詡は一度曹操に降伏し油断を誘って逆襲する策を提示し、この作戦通り張繡と賈詡は降伏した。

思惑通り曹操が油断したところで奇襲を仕掛ける。

ここで曹操の長子曹昂や護衛隊長の典韋を打ち取るも、曹操の脱出を許してしまった。

袁紹と曹操の対立が激化するなか、賈詡は曹操と敵対し続けてもいずれ負けると予測、張繡に降伏を促す。

曹操は遺恨ある張繡と賈詡の降伏を認め、これより以後賈詡は曹操参謀となって活躍。

官渡の戦いや潼関の戦いで参戦し、とくに潼関の戦いでは馬超と韓遂を仲違いさせ涼州軍閥を破壊した。

220年には三公の一つである大尉に昇進し、223年に病で亡くなる。

潼関の戦い

評価 逸話 肩書

魏の大尉

賈詡(かく)は、中国の古典『三国志』に登場する政治家・軍師で、曹操とその後継者である曹丕(文帝)に仕えた人物です。

彼はその政治的な知恵と戦略的な洞察力で知られています。

三国志を代表する策略家ですが、その名が世に知れたのは40歳を過ぎてからでした。

また世に出るまえから近しい人からは「張良や陳平(古代の軍師)に匹敵する智謀の持ち主だ。」と称されます。

何度も主君を変えながら天寿を全うしており、非常に処世術にも長けていました。

何度も主君を変え、また噓の降伏までした賈詡を、実力だけで評価した曹操は単純に驚きですよね。(私なら信用出来ない気がします。)

その知恵と政治的な見識は、その時代において高く評価されており、後世の文学や戯曲においても頻繁に登場する偉人の一人です。

鍾繇 元常(しょうよう げんじょう)人物伝 ステータス

鍾繇グラフ
鍾繇

151年、豫州潁川郡(よしゅうえいせんぐん)で生まれる。

当初は後漢に仕え、のち献帝の長安脱出に貢献した。

その後、同郷の荀彧のすすめで曹操に仕える。

200年に起きた官渡の戦いにおいて曹操軍の兵站を支えた。

曹丕、曹叡の代まで仕え魏の大宰相として政治に参画、太傅にまで昇進する。

230年老衰により80歳で亡くなった。

評価 逸話 肩書

魏の太傅

歴史書「春秋左氏伝」を愛読していたとされます。

鍾繇は、若い頃からその才能を発揮し、当時の名士として知られるようになりました。

彼は学問においても優れ、特に漢詩や文章に秀でその文学的才能は、曹操やその家族からの尊敬を集めます。

「鍾繇体」と呼ばれた鍾繇の書体は、王羲之をはじめ多くの人に学ばれました。

曹操が北方に遠征した際は、鍾繇は留守を任されました。

任地に関中(長安付近)から大量の軍馬や物資を供給し、曹操から「漢の名臣簫何(しょうか)に匹敵する活躍だ。」と称賛されます。

その後、鍾繇は曹操の軍師として活躍し、特に曹操の征北方面における戦略の立案に貢献すると同時に、関中の政治においてもその才覚をふるいました。

また一度失脚した司馬懿の有能性を皇帝に説き、諸葛孔明との戦いの総司令官に司馬懿を勧めたのも鍾繇です。

なお鍾繇の息子に蜀漢を平定した鍾会がいます。

鍾会は225年生まれとされているので、鍾繇の75歳の子供となるのは少し興味深いですね。

さまざまな視点からも、時代の流れに深く関わる人物の一人といえるでしょう。

賈詡一部参考Wikipedia

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