ジョチ 人物伝 ステータス
ボルテの第一子として生を受けるが、ボルテがメルキト族にさらわれた時に懐妊した。(チンギスの子ではない可能性が有。)
このことにチンギスは当初頭を抱えるが、生まれてきたジョチを我が子として扱うことを決め、周囲にも周知徹底させる。
成人になる前からチンギスの下で一軍を率いて戦い統一戦に貢献した。
モンゴル帝国建国に際しチンギスから、アルタイ山脈から西方イルティシュ川付近の広大な地域を任され、モンゴル帝国の西方拡大を担う。(この地域は当時まだ服属していない部族も多数いて、それらの統治も任された。)
1211年チンギスの金王朝侵攻作戦に参陣し、弟たちとともにモンゴル帝国軍右翼を率いて躍動、金国の諸都市を次々と攻め落とした。
のちメルキト族の残党をスブタイとともに任される。
メルキト族は遠くキプチャク草原まで逃げ、それを追いかけたジョチとスブタイは、当時この地域に勢力を伸ばしつつあったイスラム国家ホラズムシャー朝と遭遇し戦となった。
兵数は圧倒的に劣勢だったが、ジョチとスブタイの奮戦により引き分けとなる。
その直後にはモンゴル帝国本隊による本格的なホラズム侵攻作戦が実施され、ジョチはここでも右翼を率いてホラズムの前線都市オトラルを攻撃し陥落させた。
その後は領地の経営に尽力したが1225年病に倒れ、父のチンギスに先立って亡くなった。
評価 逸話
出生の問題はジョチの人生においてつねにつきまとい、後継者を話し合う場では弟のチャガタイになじられます。
そのこともありチャガタイとは不仲で、これがのちのモンゴル帝国分裂の遠因となりました。
しかし戦士としても将軍としても非常に優秀で、また敵国の攻略戦では苛烈なモンゴル帝国軍にあって、ジョチは最後まで敵国に降伏をうながし破壊と略奪を好まなかったようです。
慈悲深いジョチの一面は結果として、モンゴル帝国の法を重んじるチャガタイとぶつかったことでしょう。
亡くなる直前はチンギスに謀反を疑われて軍まで差し向けられました。
自身の死でもって疑いを晴らすというあまりにも悲しい最後をジョチは迎えました。
しかしジョチ家を継いだ次男のバトゥが父の無念をすべて晴らし、ジョチ家の威名をモンゴル帝国のみならず世界中にとどろかせたのは胸が熱いです。
悲しい運命の人で、こういうエピソードの人物は心が震えてしまいますね。
チャガタイ 人物伝 ステータス
チンギスの次男。
モンゴル帝国建国時にアルタイ山脈南部を任され統治した。(この地域はのちチャガタイハン国となる。)
チンギスの征服戦に兄弟とともに参戦し功績をあげる。
チンギス死後は弟のオゴデイを支持し、オゴデイを大ハーンに推戴した。
その後オゴデイが亡くなると、チャガタイもあとを追うように亡くなった。
私評 逸話
チャガタイハン国の始祖となります。
兄のジョチとはつねにそりが合わず、チンギスの前で大ゲンカすることもありました。
チャガタイは厳格な人物でつねにモンゴル帝国の規則を遵守し「ヤサ(法)の番人」と言われましたが、これが結果としてチンギスにうとまれ後継者からは外れたようです。
しかしオゴデイとはつねに信頼関係があり、オゴデイの治世ではその厳格さをもってモンゴル帝国の地盤を固めました。
なおチャガタイの孫に、ワールシュタッドの戦いでポーランド、ドイツ騎士団に血の雨を降らせたモンゴル帝国別働隊司令官バイダルがいます。