心ってなんでしょうか?
仏教的な文脈で説明すると、
行為の元となる意思、知識、欲求、感情(怒りや憎しみ、憂い、喜び...)等の構成要素、機能を包括した概念(心所:チッタ)ってことになると思いますが、人が生命を維持するために備わった機能、記憶装置?自立学習型AIプログラム?なんて表現も可能なのかな。
まあ、意思と思考と感情を併せたのが心と定義付けするのが一般的ですし、シンプルな定義が好きな私はそのように捉えています。
もうちょっと詳しく知りたい方は、【心所】で検索してみてください。
さて、
マインドフルネス瞑想の基本の基本は静かな場所で座って、呼吸に集中し、雑念が生じたらジャッジせずに(良い悪いの判断をせずに)、呼吸に集中すること。
まあ、これがどんなマインドフルネス瞑想の書籍を読んでも書いてある基本ですよね。
でも、これだけだと何故ジャッジしないのか?ってことが判らない。
まず、ジャッジする前のその雑念は個人の認知バイアスに関係していて、とにかくその思考が心の苦しみや虚構の世界を生み出してるよ、ってことを理解しておかないと、ただ呼吸に集中しているだけで、瞑想から普段の生活に戻れば、ぐるぐる思考に捉われている元の「私」がいるだけなんですよね。
そして、瞑想している「私」が、この「私」って何?なのかも理解しておかないと、心の苦しみに対処というか、ニュートラルにすることはできない。
まあ、「私」と思考に関しての関係性とか諸々の説明は以降の記事で追って説明をしたいとは思いますが、まずはですね、意識と思考についてから。
思考に関してはもっと詳しく説明する必要がありますが、基本的な事柄を先行しましょう。
仏教、唯識では前六識、目、耳、鼻、舌、身、意で、意の意識は感覚器官の対象を総括して判断し分別する心の働きとされています。
意識は生きている人の共通感覚と言えますが、しかし、分別する心の働きによる意味付けは言語や男女の別、世代、職業、肩書等...によって変わってきます。
つまり、雑念である思考は個々によって変わってきますが、対象認識を判断し分別する前、概念化する前の純粋な認識は人類の共通認識であると言えますよね。
では、雑念の元の思考はどうでしょうか。
端的にいうと、思考は全て虚構(フィクション)なんです。
皆さんは同じ出来事なのに人それぞれによって評価や意味づけが違うのを疑問に思ったことはありませんか?
起きている出来事はただ起きているだけで、最初からその出来事に意味は付していません。
意味は出来事が起きた後から個人の認知バイアスを通して意味づけしていませんか?だから、個人毎に意味や評価が違うんです。これまで生きてきた経験による先入観や価値観により意味づけされた言語による表現が思考です。この思考はその時代や地域性を反映した社会的な概念を真実を検証せずに私たちが無自覚に採用しているただの概念で、これは虚構なのです。そして、この思考を「私」と勘違いしています。
だって、そうでしょう?
そもそも社会にある既成の概念で、生まれる前から持ってきた価値や判断なんてないでしょ?
そして、その雑念=思考は「私」ではないんですから、意識と思考は無関係ですよね?
であれば、マインドフルネス瞑想で呼吸に集中して雑念がでたら、その雑念は「私」とは無関係ですから、基本的にはただ思考を眺めるだけでいいんです。
思考を止めて呼吸に集中し直すでもいいでしょう。
その思考は「私」とは無関係なんだから、良い悪いのジャッジも必要ありません。
良し悪しの判断を決めているのも今まで生きてきた経験による判断で、空の思想から見ると「良い」は「悪い」という対比によって成立し、「悪い」という観念は自立して成立しません。必ず対比される「良い」に準拠して成立しています。
そして、その、良し悪しの区別に完全な中心ラインを引くことができるでしょうか?仮にできたとしてもそのラインは社会や他者から影響を受けて変化しませんか?
なので、瞑想時には意識が本来の自己で、思考は「私」とは全く無関係な現象として取り扱います。もっというと、意識が本来の自己なら、その意識を生み出している生命の現象が本当の私です。だから、私たちは世界であり、宇宙なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿