林檎の語源って、鳥の集まる木って意味だそうな。
元々日本には中国から和林檎が輸入されて、私たちが現在食べている西洋林檎より小ぶりな種類で、今はほとんど栽培されていないそうです。
へぇーそうなんだぁ...って感じですよね。
さて、原始から林檎にリンゴって名称は付いていなくて、先に話した語源から名づけられていますよね?
まあ、日本に輸入された時に名称と共に植樹されているわけで、その名称が現在も引き継がれていて、集団的な合意に基づいて林檎はリンゴって呼称しましょう!ってなことで、赤くて丸い果物をリンゴって呼んでます。
でもよく考えてみると、林檎自体にはリンゴって名称は付いていなくて、人だけがリンゴって呼んでいますよね?
鳥さんはリンゴ~なんて鳴きませんよね。
皆さん、このことをアナタの身の回りの物に当てはめてみてください。
コーヒーカップとか、パソコンとか、椅子とか、ベッドとか...
ぜーんぶ、名前は付いていません。
私たちが世界と呼んでいる自然環境にも元々名称は付いていません。
植物や動物も元々名称は付いていなくて、文明や化学が発達するにつれ、名称を付けてカテゴリー化し、さらに細分化して、細かな種別をしています。
そうなんです、
言葉という音の響きが「物」そのものを指ししめすと勘違いし、言葉が指し示す事物そのものが存在していると私たちは思っています。
そのようにして、言語による主語、述語、動詞、形容詞...の表現とおりに世界があるんだ!って人は思っているのです。
さらに、仏教の縁起説によれば、すべての事象は区別のない相関関係によって仮に存在しているのであり、世界という現象から全く何の影響も受けずに独立して自性し永続する存在なんてありえないんだよ、ってことを説明しています。
であるのなら、林檎は世界から切り離されて存在する現象ではなく、その現象から林檎だけを切り取ってリンゴって表現はなしえないわけで、林檎って現象はあくまで宇宙と一体の現象であるのだから、そこだけ名前を付けるのおかしくね?ってことも言えますよね。
そしたら、自分の体に「私」とか「個人」とか「男」とか「女」とか、「父」とか「娘」とか「学生」とか「会社員」とか表現しえない訳です。
「私」と私にまつわる世界は言葉による概念によって表現される実体のない音や思考の中の言葉であると言えます。
ひとつ前の記事、マインドフルネスー実践の為のtips#2(心:意識と思考)で書きましたが、思考は言葉による虚構であり、思考の内容は意識とは全く無関係です。
ですが、今に気が付いていて、理路整然としていて、自我執着に捕らわれない思考は問題はありません。
瞑想による訓練を普段の生活にフィードバックして、普段の生活でできるだけ気づきを保つと共に、主に自動思考は全て虚構であり、妄想なんだと気が付いていることが肝心です。
自動思考に捉われてしまっても後で気が付いて、虚構だと気が付いていけば徐々に自動思考は少なくなりますし、捉われてしまってもそこから抜け出す時間も早くなります。
また、瞑想時は呼吸に集中していることが重要ですが、普段の生活や歩く瞑想時には思考を中和してニュートラルにすることも必要だと私は思いますので、このことは後に記事にしたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿