現代社会・技術の評論・雑感

時論的に諸問題に持論を展開します

科学は人間の体をどのくらい分かるのか

2018-01-28 | 医療・健康
 
目次
 はじめに
 1.高橋晄正の玄米食・漢方薬批判について
 2.科学卑(かがくひ)
 3.科学は人間の体をどのくらい分かるのか
 4.内科は科学か
 5.科学志向の強い人はなぜ健康食品をきらうのか
 6.自然医食か安全食か
 7.長寿集団、短命集団
 8.おわりに


はじめに
 この小稿はもともとは「武谷三男らから得られたこと得られなかったこと」の付録として書いたものである。ただ、分量がふえたことと、本文と関連のうすい文章も多いため独立のものとした。

1.高橋晄正の玄米食、漢方薬批判について
 高橋晄正(1918~2004)は東大物療内科の医師だった。彼の功績は薬(化学薬剤)批判にある。薬の副作用は大きく彼の功績は多大ではないかと思う。その彼が1989年、70歳頃に『自然食は安全か』で玄米菜食などにきびしい批判をした。その後、1990~1993 年に『漢方薬は効かない』ほか2冊を書き漢方薬批判をした。これらをかんたんに紹介し、私のコメントなどをつけておこう。

 まず、玄米食について高橋は次のように言う。
「長々と玄米の功罪を、有用の可能性と有害の可能性の両面から科学的に検討してきたが、残念ながらその効能を”全体”として裏付ける疫学的データは存在しない。したがって玄米食論は”部分”から眺めた”はずだ理論”からの発言でしかありえないが、その有効性の根拠は不明確であるのに、それに有害性があることの根拠は明確であると科学的には結論せざるを得ない。」(『自然食は安全か』)

 これに対しては二人の指導者の文章を紹介しておく。
 桜木健古(食養指導者)は次のように書いている。
「玄米食の実行者かつ唱導者として名の高い沼田勇医博のお話ですが---氏のある知人はいつも、庭のひとつの大きな石のうえに玄米をいれた皿をおいています。そこからすこし離れた石のうえには、白米を入れた皿をおいておく。ある日沼田氏はその家の居間から見ていたが、玄米の皿のほうはスズメがたくさん集まるのに、白米のほうには一羽しか来なかったそうです。その知人の話によると、白米のほうへゆくのは玄米を食べつくしてしまった後からで、白米を完全に食べてしまう日は少ないとのことでした。
 やっぱり「天行健」ですね。! あの小さなアタマから、どうしてこんな知恵がでるのか知らん?いやいや、宇宙的な知恵(本能智)というものは、大脳から出るものではなさそうです。」(『玄米食のすすめ』)
 高橋は先の見解を出すのに世界中の論文を見たようだ。しかし、それらをもってしてもスズメに勝てないのである。スズメは新幹線は作れないが、玄米の効用に関しては文明化した時代の大人よりは良く分かるのである。

 次は、鈴木弘一(医師)の解説である。鈴木は玄米菜食と米ぬか健康食品を患者にすすめ治療実績をあげていた。
「これらの病気(糖尿病、慢性肝炎・胆のう炎)にかかっても、あわてず騒がず、じっくりと、食生活を玄米菜食の方向に改善したり、断食したりしていけば、必ずや容易に治るはずだ。筆者の診療所には………糖尿病や肝臓病の患者がおとずれてきたときは、殆どの患者が全治するので大歓迎である。それほど、現代医学でもてあまされたこれら難病も、食生活や漢方で働きかけたら、おもしろいぐらいよく治る。筆者の腕がよいから治るのではない。」(『病は敵ではない』)。

 次に高橋の漢方薬批判の文章をひとつ紹介しておこう。
「認められない有効性、重い副作用、これが漢方薬の”真実”だ」「科学としての医学の立場から……そのような結論になる」(『漢方薬は効かない』1993)

 これについて、まず、漢方薬の有効性についての私の見方を書いておく。
 高橋は漢方薬は中国で二千年の歴史があるという。ということは二千年ものあいだ商品として売られてきたのである。もし有効性がないなら二千年も売れるはずがない。ある健康食品関係者は、効果のないものが10年間売れつづけることはないという。

 副作用については臨床医の中島正美の言葉を引用しておく。
「漢方治療一番の魅力は大それた副作用がないことです。薬で人を殺すことはない。開業医がなにが一番いやかというと、腹下しや風邪などの薬のショックで人が死ぬことです。そんな薬でと思われるかもしれないけど、そんな薬でも人が死ぬことはあるんです。漢方薬にも副作用はあり、そういう可能性はゼロとはいわないが、きわめてまれな例です。」(北川永志他編『私がメシマコブを使う理由』)

(参考)
 高橋晄正と似ているのが、いま活躍中の近藤誠(元慶応大学講師)である。
 高橋は薬批判で世の中に貢献したが、漢方薬・玄米食批判でつまづいた。
 近藤は抗ガン剤批判や無用なガン手術批判で貢献した。しかし、「日本人のがんの9割は、治療するよりは放っておいた方が、元気に長生きできます」とか、「砂糖、米、パンにも言えることですが、白く精製した食品を毒物のようにバッシングし、黒糖や玄米や黒パンを手放しでほめたたえる、というのは非科学的です」などと書いている(『医者に殺されない47の心得』)。これらをそのまま受け入れられる治療家はいるだろうか。


2.科学卑(かがくひ)
 科学卑は私の造語である。私は高橋晄正が科学、科学、科学と言いながら庶民のなかにそれなりに定着している玄米食や漢方薬を批判するのを読んで、科学卑という言葉を思いついた。もちろん高橋を科学卑と断定するわけではないが。

 こう思うにいたったのは、50年ほど前の思い出からである。私は1965年に電電公社と関連業界向けの業界雑誌(1960年頃のもの)をみていた。そこでは、電電公社の幹部Aが「法卑(ほうひ)」だと批判されていた。私はこの意味はすぐわかった。当時の電話不足のなか、社内のだれかが「新しい利用形態を売り出したい」とか「新技術を使いたい」といった提案をする。するとAは「これは電気通信事業法違反だ」「それは公衆電気通信法違反だ」などといって足をひっぱっていたと思われる。

 科学、科学といって、それこそ根拠もなく攻めまくる人が、私のいう科学卑である。
 科学卑的な人はけっこういる。たまたま行った図書館に、ある医師の書いた代替療法批判の本があった。それをみたところ、この医師は科学卑的だと思った。健康食品を科学的根拠がないとする批判ぶりに現れていた。もっとも新聞を見ているとこういった人はたくさんいる。

 社会科学系でも問題がないわけではない。
 北朝鮮は2002年 9月の小泉首相訪朝のさいに日本人拉致を認めた。拉致の事実はその 2~3 年前には脱北者の証言などもあり、この問題に関心が高い人にとっては明らかなことだった。そんななか和田春樹(当時東大教授)は「横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである」(『世界』2001年 2月号)と書いた。私はこれを読みながら「人の調べた証拠を批判するだけだ。かれ自身の時間を無駄にしている」と思った。ただ、科学卑という用語は思い浮かばなかった。


3.人間の体を科学はどのくらい分かるのか
 健康食品にかぎらずいろいろな食品に治療効果があるといった解説はたくさんある。これに対し医学や栄養学系の人たちから「食品が病気の治療に効くという科学的根拠はない」といった批判がマスコミを通してでてくる。

 では、科学は人体のことをどのくらい分かっているのだろうか。
 10年ほど前、私はある食生活のセミナーで「利根川博士は科学は人間の体のことを1%くらいしか分かっていないと言っている」などと聞いた。利根川博士とは生物学者でノーベル賞受賞者の利根川進である。このセミナーは公開でだれでも出席できる。だからウソはないと思うが、今回、確認しようと思い利根川の本を何冊かみたがさがせなかった。

 次は本年(2018)の 1月 7日のことである。私はNHKの「人体」シリーズの 2回目(再放送)をみていた。番組の終わりころ山中伸弥(医学者、京大教授、ノーベル賞受賞者)がタモリとの会話で「人体の仕組みはまだ10%位しかわかっていない」などと語った。私はこれを聞き、山中が10%といったのは人体の正常な仕組みで、異常な仕組み(病気)が分かるのは数%となり、異常の修正(治療)なら 1%くらいになってしまうのではないかと思った。
 私は生命科学の知識は皆無に近い。そのため利根川や山中の言ったことの理解力は低い。でも、人体のことは科学ではほとんど分からないという意味はなんとなく分かる。

 話は変わるがテレビの健康番組をみていると「○○といわれています」といった表現によく出会う。東洋医学系の人も現代医学系の人も同じように言う。3つ例示しておこう。「体温が低いとガンになりやすいといわれています」「お酒は一日2合までなら健康に害はないといわれています」「和食は健康によいといわれています」
 私はこういった表現を聞きながら、人体のことを科学で断定するのはむずかしいことなのだと思っている。

 ここで医学部と工学部の双方に席をおいた石井威望(元東大工学部教授)の著書から引用しておこう。
「……私は最初東大の医学部を卒業し、昭和三十年に医師資格を取得したが、そのまま医師にならずに、再度工学部に入りなおしてまったく畑違いのコースに進んだ。
 このような選択をおこなった理由はいろいろあるが、ひとつには医学というものが理論的、法則的にみてわりきれない要素をひじょうに多く含んだ学問であるということが大きく影響していたと思う。とくに臨床医学は生きた患者が相手であるだけに、理論で支配できない部分がきわめて大きい。私は臨床医学を学ぶことによって、論理のあいまいさを痛感し、これは科学の望ましい姿ではない、と当時は考えていた。」(『科学技術は人間をどう変えるか』)
 さらにつづけて石井は、工学系でさえ理論中心に展開されていないとし、次のように書いている。
「工学系においても、医学とかたちはちがうけれども、理論で支配できない要素が大きな部分を占めていることがのちになってわかってきたのである。(中略)
 工場や生産現場……では理論よりもそこで働く人々の経験則のほうが幅をきかせている。」(『前掲書』)


4.内科は科学か
 高橋晄正は科学、科学といっては庶民が取り入れている玄米や漢方薬を攻撃した。
 では、高橋の仕事である内科は科学なのだろうか。
 現代医学、すなわち病院の治療はほとんど対症療法である。薬(化学薬剤)をつかって症状を一時的におさえるのみである。だから内科治療は大局的にみると科学ではない。これについては、私の「非科学の中での科学?」(2008)という文章を転載しておく。

「お医者さんをはじめ、多くの人たちは現代医学を科学だと思っているようです。なかでも一部のお医者さんたちは、民間療法など現代医学以外の療法家に対して、非科学的であると厳しく批判しています。
 さて、私ですが、これまで深く考えたことはありませんでしたが、現代医学は科学であるとする意見に対して、あまり疑いをもったことはありませんでした。

 しかし、数カ月前に医師の石原結實さんの次の発言に出くわし少しはっとしました。
「慢性疾患は必ずその根本的な原因となる生活の乱れや、心身に対する無理があるわけですね。だから、そこを取り除かなければ解決しないのです。
 現代医学がこれだけ発展してきたにもかかわらず、いまだに原因不明の病気は何種類もあります。そして原因が不明なのに、西洋医学は、それをほとんど自己免疫性疾患として扱ってしまうのです。よく、西洋医学は『科学』と言いますが、病気という結果に対して、原因を特定するのが科学であるはずですから、現代医学は科学とは言えない一面がありますね。(中略)
 その点では、西洋医学が時として非科学的だと馬鹿にする東洋医学のほうが、『全ての病気は血液の汚れ』といっているわけですから、よっぽど科学的といえるでしょう。」(安保徹・石原結實『病気が逃げ出す生き方』講談社、2008年)

 私は仕事のため病気に関する本をよくみます。そして、特によくみるというか探すのが、特定の病気についての原因です。ところが現代医学系の本、すなわちお医者さんたちが書いた本には原因がほとんど書かれていないのです。いっぽう、東洋医学や食養法の本には原因がある程度書かれています。分からないことだらけなのが人間の体ですから、どの本にも十分といえるほどは書かれていませんが、それでも東洋医学系の本には原因が書かれれいるのです。

 石原結實さんは遠慮してか、「現代医学は科学とは言えない一面がありますね」といっていますが、私は次のように考えました。「現代医学は病気の原因を追究しないから、基本的な部分では科学ではない。しかし、クスリの開発手法など、部分的には科学である」
 現代医学は「非科学の中での科学」というのが私の結論です。ただし、これは現代医学の生活習慣病の治療に関してのことです。」


5.科学志向の強い人はなぜ健康食品をきらうのか
 「玄米食をすすめる人がいるが、とんでもない間違いだ」。これは著名な環境学者の発言である。1985年にエコロジーグループの合同発表会が東京であった。発表者は各グループの代表者で数人だった。このなかの一人が冒頭の発言をしたのである。私はこれを聞いてびっくりした。というのは、彼は玄米食については特に勉強している様子はなく感情で言っているように思えたからだ。

 玄米食、健康食品、整体をきらう人はたくさんいる。なかでも健康食品をてってい的にきらう人は多い。私はここ十数年、ある健康食品を知人、友人などに勧めてきたから、いっそうよくわかる。
 どうして、このようなことが起きるのだろうか。今回、この原稿を書きながら、その真相のいったんが分かりかけた。
 10年ほど前に私は東京都心の自然食品店に行った。そこで店員に「どんな健康食品が売れるのですか」と聞いた。彼は、梅肉エキス、玄米発酵食品、スピルリナと教えてくれた(順位を聞かなかったのでアイウエオ順とした)。梅肉エキスは青梅のしぼり汁、玄米発酵食品は米糠を発酵させたもの、スピルリナな塩湖でとれる藻(海苔)の錠粒で、どれもごく単純な食べ物である。しかし、こういったものを毛嫌いする人が多い。なぜか、私は彼らが健康食品に対して「気持ち悪い」という感情をもつのが主因だと思った。

 こう思うのは私の体験からきている。私は小学 5~中1の時(1952年前後)、近所の整体院(マッサージ)の前を通ったとき、なんとなく気持ち悪さを感じていた。当時は敗戦から日が浅く、アメリカ文化の崇拝色が強かったので、子どもの私にもそれが影響し、科学の病院は正しく整体院はあやしいものと思わせられたのである。
 健康食品をきらう人は、その開発・製造者に科学を習得した人が少なく、製造会社も小さいので、なんとなく気持ち悪いと思うのではないか。でも時代は動いている。いまや大塚製薬、協和発酵、大正製薬、武田薬品、富士フィルムなどの大手企業が続々と健康食品の販売をはじめている。


6.自然医食か安全食か
 自然医食も安全食も聞いたことのない言葉だと思う。自然医食は森下敬一(医師)だけが使っている。安全食は私がつくった。「食の安全」を逆にして安全食とした。
 自然医食の内容は玄米菜食である。いっぽう、安全食の内容は決まりがない。食材を買うときに化学物質などの少ないものを選ぶといったことである。

 この 2つの用語は過去の食生活改善運動とも関係している。1960年前後に危険食という言葉があった。なにが危険かというと、一つは欧米化した食生活であり、もう一つは農薬などの化学物質だった。そして前者により関心の高かった人も、後者を主とした人も「自然食」を使った。これに対して森下は「モノ自体が自然であればよい」というだけでは健康になれないとし、「われわれの体の自然治癒力を高めて、より健康にしてくれる」食事を自然医食と名づけた(『自然医食療法』)。1980年頃のことである。

 いっぽう、「食生活の欧米化というマクロな問題ではなく、添加物、農薬、合成洗剤、人工飼料、遺伝子組み換え食品など健康を脅かすミクロな問題を取り上げる」人たちは「食の安全」という言葉を使った(幕内秀夫『40歳からの元気食「何を食べないか」』)。
 幕内は食の安全にはまり込んだ人たちは「ひたすら「食の安全」にしか目がむきません。無添加、無農薬ならそれでいいと思っている」とし、こういったことで欧米食をつづけていたなら健康になれないと指摘している(『前掲書』)。

 これについて、私が書いた「無添加・無農薬より、まず未精白穀物を」(2005)を紹介しておく。
「Aさんは、無農薬・有機肥料の白米と牧草で育った牛の肉を常食としています。Bさんは化学肥料と農薬で作られた玄米と野菜を常食としています。どちらが健康でしょうか。
 他の条件が同じなら、明らかにBさんの方が健康でしょう。 
 食べ物の選択に熱心でありながら、そのエネルギーが無添加・無農薬に片寄りすぎている人がいます。この人たちは、努力の割りには良い結果は得られません。無農薬・無化学肥料であっても、白米は白米です。また、牧草を食べている家畜の肉も肉です。いっぽう、化学肥料で育った玄米でも、その胚芽・表皮には、ビタミン、ミネラル、食物繊維は豊富です。
(注)私も添加物には関心があります。パンやインスタントラーメンを買うときは、添加物の記載を良くみています。」

 ここで一つ付け加えておく。私は安全な食品を求めて運動を展開している人に、内心、敬意をもっている。この人たちのおかげで私自身が安全な食品を手にしているからである。
 幕内秀夫も次のように書いている。
「私は仕事柄、安全な食品を流通する団体の人たちと接する機会が多くあります。真面目に食品の安全性を追求する人たち、その生産と流通に汗を流している人たちもたくさん知っています。それらの努力には頭か下がりますし、功の面もたくさん知っています。」(『前掲書』)


7.長寿集団、短命集団
 長寿集団、短命集団という言葉は私がつくった。ヒントは近藤正二(医学者、元東北大学教授)の『日本の長寿村、短命村』(1972)である。近藤は1935年から1970年頃まで、日本全国の村をたずね歩き、長寿・短命と食生活の関係を調査した。近藤によると老人会は、長寿の村では80歳くらいから、短命な村では60歳くらいから始まっているという。食生活は、長寿の村は「黒い米や麦・雑穀を主食にし、大豆(みそ)を十分に、野菜ものを多く摂る、小魚を時々食べる、大食しない」だそうてす。いっぽう短命な村は「白米を大食し、肉や脂類、魚と肉だけ、野菜が少ない」ところに多いという(食事内容の要約は『杉靖三郎の現代養生訓』による)。

 近藤が調べ終えたのは今から45年以上も前のことである。その後、日本は交通網が整備され食品の流通がさかんになり、各地の食事内容の差は少なくなった。そのため、寿命の地域差も小さくなっている。
 では、いまの日本に集団による寿命の差はないだろうか。私はあるとみて長寿集団、短命集団という言葉をつくった。といっても私が寿命のことを調べたわけではない。そこで、いろいろな情報から得た知識の一部だけを紹介しておく。

 短命集団で思いつくのは相撲の親方たちである。 2~3 年前に元横綱の北の湖が62才で、千代の富士が61歳で亡くなった。ただ、この二人は例外とはいえない。他の親方たちも総じて短命である。

 私はこれ以外に典型的な短命集団といったものを知らないが、いくつか気がつくことはある。
 一つは食の安全を求めて有機農業などをする人たちである。このなかには60代から70代前半でなくなる人が目につく。前節で紹介した自然医食を実践する人たちとのちがいは大きい。

 次は医者である。10年ほど前に、ある食生活のセミナーで「お医者さんがけっこう60代で亡くなっている」といった話を聞いた。当日の講師は全国各地を回っており、参加者から医者の寿命のことを聞いたのだと思う。
 それからほぼ10年後、私はある医師が「医者の平均寿命は 5年から10年短い」と本に書いているのをみた。そこにはデータなどはなかった。そこで、ネットで調べたところ「医師の平均寿命は68歳~73歳とされており」とあった。書いたのは福岡県保険医協会理事の財津吉和である(2007.11.13)。さらに調べたところ他にもこういった数値的なものがあった。
 医者が短命か否かについて、私はこれだけの情報では確信をもてない。しかし、かりに医者が短命だとしたら理由はなんだろうか。激務だからという人もいるが、医者がエビデンス(科学的根拠)を求めすぎて、代替医療に近づきにくいことも原因ではないかと思った。


8.おわりに
 この小稿では科学に焦点をあてて書いてきた部分もあり、ここでも科学にふれておわりとしたい。
 私は科学というと電気を思い出す。電気は照明、家電、電車など多方面で利用されている。いっぽう、感電、漏電、電車事故もあり、手ばなしで評価できるものでもない。しかし、科学から出た電気の価値を疑う人はいないと思う。

 いっぽう、玄米菜食や健康食品について「科学的根拠かない」とか「非科学的である」というときの科学には変な感じかする。斉藤道雄(元TBSディレクター)は 3年あまりの取材のなかで「玄米菜食、鍼や温灸、ヨガや瞑想に活路を見いだし……「ガンは治るんです」という人」に何百人もあったという(『希望のがん治療』)。こういった事実はほかにもかんたんに探せるにもかかわらず、「玄米食や健康食品で病気が治るという科学的根拠はない」といったことを平気でいう科学者(?)はあとをたたない。

 『粗食のすすめ』(1997)を書いた幕内秀夫(栄養士)は「私の主張に対して、非科学的だと指摘をする栄養学者などもいた。何をもって、「非科学的」というのか、具体的な指摘はまったくなかった。栄養学者の「非科学的」という言葉を翻訳すれば、「私たちと主張が違う」という意味だったのだと思う」と書いている(『粗食のすすめ新版』2010)。

 私は、健康食品に科学的根拠がないとする批判をたくさん読んできたが、今回、幕内とは別のことに気がついた。現代医学や現代栄養学系の一部の人たちが「科学的根拠がない」と言う意味は、「オレたちの職業領域をおかさないでくれ」ということだと思った。

 つい最近、2004年に参加した食生活の公開セミナーのメモを見た。そこには、「科学はウソをつく(科学は変わる)」「物と命を分けて考える」「科学は命を分かっていない」「科学は参考程度でよい、歴史や伝統を大切にする」などと書かれていた。講師の発言の一部である。こういったことが公開のセミナーで語られ、それを聞いている人がたくさんいることを科学志向の人は知る必要がある。科学、科学とさけび、定着している事実を否定していては、社会を不幸にするばかりか、自分をも不幸にしてしまう。

(参考)おどろくほど健康になれる食事法

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