フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者 | 空想俳人日記

フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者

 へええ、フランスの高校では、哲学の授業が必須なんだあ。大学受験も、理系・文系問わず、試験に哲学があるそうな。
 以前、映画『ぼくたちの哲学教室』を観て、いかに哲学が子どもたちに考える力を身につけるか、痛いほどわかった。解決しない疑問を考えるって、大切だよねえ。
 絵本作家の安野光雅さんも『かんがえる子ども』が大事だって言ってたし、赤瀬川原平さんの「こどもの哲学 大人の絵本」シリーズ『ふしぎなお金』『自分の謎』『四角形の歴史』は、まさに、そんな本だね。



 この『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』の著者さんは、長年、教壇に立ち哲学を教える一方、映画館で哲学教室を開き、雑誌に連載をもつなど、哲学を多くの人に提供してきたんだって。



1 プラトン
 天に理想を求める、「イデア(=理想)の天界」を作りだした人だね。
《ニーチェはプラトンを理想主義の創始者として位置づけた。ニーチェによれば、天と地を神と人の領分として区別するキリスト教は、プラトンの思想を借用したものである。》
 おお、ニーチェ、すごっ!
 ただ、プラトンの思想は、知恵の人に導かれ、一部のエリートだけが真理に到達できるという点で、民主的ではない。そしたら、
《ニーチェによると、キリスト教はこれを民主化し、誰でも天国に行けるとすることでプラトン主義を俗化させた。哲学者の役割を教会が担い、「人民のためのプラトン主義」をつくったのだ》と。
 またまたニーチェ、凄し! でも、これでは、この世界で自ら悩んで考えてどう行動するか、全く分かんないね。なんせ、天界、知らんし。
 その点、次のアリストテレスのが頷ける。この下界を中心に考えてくれてる。

2 アリストテレス
 彼は、プラトンの弟子だけと、全く真逆の考え方だよ。
《空を見上げるプラトンと地を観察するアリストテレス》、ボクは後者だな。
《出会いや社会生活、政治的立場あど、私たち人間の生活は偶発性に支配されている。(中略)アリストテレスはこの偶発性を行動に結びつけ、逃げずに受け入れることを説く。》
 例えば、ここで「勇気」、理想の「勇気」を語るのでなく、無鉄砲と臆病の中間、つまり両極端の悪い例を具体的にあげ、そのどちらとも等しく距離を置くことを最善としているのだ。なあるほど、でしょ。
 ただ、彼は「奴隷」を正当化している。
《生まれながらに命じる立場にある人と従属する立場にある人がいるなんて、理由をせつめいすることができないではないか。》と著者さん。ところがどっこい、
《彼は、戦争に負けた側の人民を奴隷とするなど「暴力による」奴隷化を非難している。》と言い、最後に、
《アリストテレスにとって「奴隷」とは「隷従」を意味していたということである。》
 そして、今の時代に置き換えてみる。
《10億人の金持ちのために50億人の奴隷が働かされていることにならないだろうか。》と、現代の搾取の問題、西欧企業と発展途上国。そして、次の著者さんの言葉は鋭い。
《遠い未来の人々は、今、私たちが古代ギリシャの奴隷制を非難するように、現在の状況をありえないものとして批判するかもしれないのだ。》

3 デカルト
 続いてはデカルトだ。彼の機械論は有名だね。何もロボットみたいに捉えたんじゃなくメカニックな運動体として機械に置き換えて説明できるとしたんだよね。
 前に読んだ、『魔女狩りのヨーロッパ史』でも書かれたけど、魔女狩りの終焉を迎えたのは、デカルトの功績かもしれない。
 あと、もっと有名なのは、リンゴを疑って、これ、ヨシタケシンスケの『リンゴかもしれない』思い出す。違うのは、疑って違うものはデカルトは排除する。ヨシタケシンスケはもったいないから、たくさんの「リンゴじゃないかもしれない」妄想する。さらに疑って、この世はあるのか、疑って、「俺は何者」と来たところで、有名な、「われ思う、ゆえにわれあり」となる。そんなこと、ずっと当たり前だと思ってた。
 ただ、デカルトの偉業は、今日の実存主義の走りかもしれない、既存の信じられている魔女や呪術の世界を駆逐した。デカルトがスゲエのは、神をも駆逐しようとした。
 ところが、彼に反する人間が出てくるのだなあ、スピノザ。彼を知っている人、あまりいないんじゃないかな。

4 スピノザ
 この人の考え方は嫌いじゃないんだなあ。なぜなら、一神教の崇拝を否定して、森羅万象に神がおられる、って、これ、カッコいいと思わない。
 一神教のイエスの神やユダヤの神を否定して、神は森羅万象に宿るとした。これ、ボクも、結構惹かれた。
 スピノザは、戦前は殆ど顧みられなった哲学者らしい。けれど、彼が何故に重要か、それは、デカルト以降に残された精神と身体の心身問題、機械論と自由、幾何学的精神と宗教的精神などの分裂をすべて統合することを目指したのだね。
《情動は受動的なものであるが、それを理解することで人は能動の側に回る。情動がどういう意味で必然なのかを知れば、それに振りまわされずに自由に動ける。自由に動けることは喜びだ。》
 これよ。悲しみを喜びに変える、スピノザの哲学は受動を能動に変える方法だよね。
 基本、ボクは神の存在を信じていないが、彼の神羅万象は肯定したい。何故なら一神教的ヒーローを否定しているからだ。一神教に、しかも人間中心主義的な神に溺れるということは、他の生き物、小さな生き物が見えなくなる。
 また、ただ祈ればいいでは、何も変わらない。「おお、神ヨ。おたすけおたすけ、おたすけよー」と唱えながらも、自らが理解し克服して行動せねば何も変わらん。明日は向こうから来るのじゃなく、明日が待っててくれるから、こちらから歩いていくのだ。なんか、新美南吉になってきた。レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』になってきた。

5 カント
 もう有名な人だよね。批判の著ばかり書いてる人だよ、「何がいかんの? とにかく、あかんと」、とボクは覚えてる。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判だね。
《科学が私たちに教えてくれることは「間違い」ではないし、時に生活に有益なものであるが、「真理」ではない。私たちは、自分たちの能力の範囲でしか世界を知ることができない。》
 としながら、
《「何を願うことが許されるのか」という問いにカントは、神、世界、自我と答える。科学に限界があるからこそ、私たちは願い、祈ることが許されるのだ。》
 ここで著者さんは注意を促す。
《神という概念をもつことと神が存在することは同じではない。神という概念を教条的に用いると、神は実在するという仮定を他者に押しつけることになる。世界や世界の進化という概念を悪用すれば、世界は勝手に進化していくものだと思わせ、より良い社会を目指す意志を失わせてしまう可能性がある。》
 実際に悪用してきた歴史が世界にはあるよね。なので、カントは、
《「何をすべきか」の問いが自由を垣間見せてくれる。善を望み、善行をなす自由が私にはある。誰も私にそれを強制することはできない。だから、自由だ。そして、「何を願うことが許されるのか」という問いへの答えが、よりよく生きる手助けをしてくれる。》
 この「自由」の概念を履き違えると、新自由主義になる。「善を望み、善行をなす自由」と言っているのだ。



6 ヘーゲル
 フランス革命を否定したカントの後はフランス革命礼讃のヘーゲルだよ。この人、ナポレオンが大好きだったんよね。
 実は、ヘーゲル、あんまし好きじゃないのよ。著作『精神現象学』というタイトルに、一見、フッサールを想起するけど、違うんよね。
 彼は「歴史の終点」について
《この世の終わりではなく、ただ単純にこれ以上改善の余地がないところ、歴史の完成形、確固たる政治力と、経済面および社会面での自由が最良の形で結びつき、人々が最も幸福に暮らせる国家を意味していた。たとえ歴史の終点に到達しても、人々は生きつづけるし、愛し合い、別れ、人間として存在し続けるだろう。》
 ということは、世界の終わりとは彼が生きているその時代なの? 著者さんは言う。
《終点以降の人間は、「ポスト・ヒストリック」と言われる。うまくいけば、彼らは数千年かけて歴史が結実させた自由を享受しつづけることができるだろう。最悪の場合は、何もすべきことを見つけられず、探そうともせず、ただ退屈に過ごすことになる。》
 ここで、またぞろ、ニーチェ登場。
《ニーチェは『反時代的考察』で、ヘーゲル派哲学の歴史観を批判し、それ以降の人たちは「遅れてきた」あわれな存在にされてしまったと指摘している。生まれるのが遅すぎたため、すべてはすでに完成しており、何もすることが残されていないというわけだ。》
 あは、大江健三郎の『遅れてきた青年』を思い出した。実際には、歴史は終点を迎えず、いまだ続いている。あらぬ方向へ……。と、ちょっと待てよ、と。今、気づいたことがある。ヘーゲルは、
《人間に関して言えば、自由とは行動の手段ではなく、行動することによって生まれるものなのだ。》
 と、こんな素晴らしいことも言っている。かと言って、自由に行動すれば、対立も生む。
 自由に意見を言うって、一方では嘘が蔓延り、異なる主張がぶつかり合い、相手を糾弾する。そしたら、社会は不安定化する。SNSがそうだねえ。
 ヘーゲルにとって、歴史の終点とは、もうこれ以上、人間は進化も繁栄もする必要なし、そうした時点で、生活を安定させ、悩んだり迷ったりする必要がない社会を持続させる、そういうことだったのではなかろうか、思えてきたよ。
 これ、ひょっとすると、「脱成長」や「ドーナツ経済」に繋がるかも。1970年代で成長する歴史を終点とし、脱成長を図るべきだった、と。『なぜ、脱成長なのか』、読み直すべきかな。
 ちょっと、ヘーゲル、「あんまし好きじゃない」という言葉、ペンディング。

7 キルケゴール
 キルケゴールと言えば、「不安の哲学」、また実存主義の走り、宗教家、そんな印象だ。さて、
《神秘こそが、秘められた本質に近いもの》
 とする彼は、ニーチェと並んで、反哲学的哲学者だけど、
《キルケゴールは神の神秘へと向かい、ニーチェは神亡き世界における人生の虚無へと向かった。》
 でも、やはり共通するのは、
《理性から逸脱するものと向き合う姿である。キルケゴールにとっては「おののき」であり、ニーチェにとっては悲劇的な笑いであるにしても、真正面から挑む姿は同じだ。》
 ニーチェと同様、「知識の重みが人間を小さな存在にしている」ことに残念がっており、
《自らの知識にうぬぼれ、そのくせ生きているうちに強烈で真摯な実存の意味を知ることが少ない過去の哲学者を軽蔑していた。》
 彼にとって「存在」とは、「苦悩すること」「絶望すること」。何故なら、
《自由は、自らを苛むように人を苦しめる。あれもこれもできないから苦しいのではない。あれもこれもできるなかで、自分が決めなくてはならない。一人きりで、疑念や躊躇、不安や震えのなかで、行動すべきか否かを選ばなければならないから苦しいのだ。》
 ここで、サルトル登場。彼はキルケゴールを哲学者として認めてなかったが、キルケゴールと同様に「苦悩を人間の条件」と位置付けている。
 また、サルトルだけじゃなくラカンも指摘してるのが
《他者が私を通して語る時にこそ、私は私である》
 これが実にユニークだ。そして、実存三段階。第一は「美学の段階」、この世は意味もないのだから享楽に身を投じ虚無を忘れる。第二は「倫理の段階」、刹那的で不安定だったものを、時間的・継続的に登録し、主観の中にとどまってたものを客体化する。ここでは、快楽を追求する(第一段階)ドン・ファンが結婚する(第二段階)という譬えで分かりやすい。ここまではヘーゲルの思想にあった。
 第三段階が、ほげ~、「宗教の段階」なのだ。これは瞬間でも継続でもなく、永遠。彼は、信仰は自由と言いながらも、もう宙に身を投げるような(やけっぱちか)超理性への飛躍、時には倫理も捨てて、それが信仰なのだ、と。
 しかも、神への信仰は不条理だから、信仰=絶望なのだ、と。このパラドクス的生き方を、ボクは出来ない。出来ないが、何故か、彼はニーチェとともに魅力的なんだな。
 そして、なるほどと思うこと、それは、選択と決断は別のもの、と。選択は理性的な判断であり、決断は理性を超えたもの、と。
《結果が確信できるまで行動を控え、良い選択をするために論証を重ねることを正当化していたら、結局何もできないまま終わってしまう。疑念があっても踏み出すこと、それは決断であり、選択ではない、決断は科学ではなく、芸術なのだ。》
 いいでしょう。なんか、大江健三郎の『見る前に飛べ』を思い出す。
 最近、結婚しない人が多いというが、おそらく理性での選択ばかりしているからじゃないかな、「えいやあ」という直観での決断ができないんだろう。
 そして、神を信じることを「選択」したと思い込んでいるが、実は、それも決断なのだ、と。
《神を信じなければならない理由などないのに、神を信じるのは私が自分で決めたからだ。それは宙に身を投げることであり、たとえそれがどんな不条理で、常軌を逸したものであっても、神の命令に従い、息子を殺して貢ごうとしたアブラハムのようにふるまうことなのだ。》
 いやあ、すげえよ、キルケゴール。行動のためなら、芸術的決断、これ、メチャ分かるう。

8 ニーチェ
 さて、既にあちこちで出てきたニーチェ。めちゃ魅力的だけど、「神は死んだ」くらいで、よお分からん人だ。と思っていたら、彼には、3つの顔があるみたいだ。
 まずは形而上学者としてのニーチェ。
《「私たちが芸術をもっているのは、私たちが真理で台なしにならないためである」》
 真理とまともに向き合ってたら生きてゆけへん。だが、幸いなことに私たちには芸術がある、と。おうおう、ここよ、キルケゴールとともに魅力的なのは。
 ところが、2つ目の顔、それは破壊者としてのニーチェ。なんと、一つ目の形而上学もぶっ壊そうとする。
《ありとあらゆる偶像を壊すニーチェである。ここでいう偶像は、形而上学、宗教、科学、言語、そして芸術や哲学までが含まれている。辛辣な批判によって、ニーチェは、精神性や文明を気取ったところで、偶像と信仰の根本にあるのは、ある種の下等な本能、多くの場合は、特に恐怖という感情であることを示そうとした。》
 そして、3つ目の顔、予言者・詩人・説教者のニーチェ。
《新時代の到来を告げ、これまでの散文的な哲学をけなし、もっと文学的で、詩的で警句的な言葉(『ツァラトゥストラ』『アンチ・キリスト』)を投げかける。この第3のニーチェは、第1、第2よりも難解だが、「永劫回帰」「力への意志」「超人」といった新たな概念を生み出した。》
 いやあ、ここに魅力があるのだねえ。
《今この瞬間が「永劫回帰」してほしいと思うほど、今この時を強く生き、欲することで、人は超人になる(「力への意志」は現状を肯定する個人の意志の力という意味合いが大きい)。》
 いいよねえ。その瞬間が永劫回帰、「永遠に繰り返されてもいいくらい」その瞬間を愛すること。瞬間の永遠、これは高校時代から経験してることだ。
 そうそう、ニーチェの著作物は要注意だって。
《『力への意志』はニーチェの著作だ。だが、これは、ニーチェが遺した断片の数々を彼の死後、妹がまとめたもので、改竄も多い。彼の妹は極右的な傾向があり、その夫は反ユダヤ主義の国粋主義者であった。妹夫婦は、ニーチェの言葉を自身の政治信条に引き寄せて解釈し、ニーチェの名声を政治活動に利用しようとした。》
 だから、ナチスの参考書にもなっちゃったらしいよ。

9 フロイト
 なんでか知らんけど、フロイトはよ~く知ってるぞ。いやいや、よ~く知ってるのはピンク・フロイドか。そういやあ、ピンク・フロイドの『アニマルズ』って、存外、哲学的じゃないかな。エリート・ビジネスマンが犬、資本家が豚、平凡な労働者が羊。そして、豚が空を飛ぶ~。
 話が逸れたが、でも、やっぱしフロイト、割と知ってるぞ。
 この人、哲学者というより精神分析医だよね。リピドー発見したのは偉大だね。能動的無意識ってのは、バカにできないエネルギーだよね。禁忌・倫理に抑圧された欲動は、「超自我」によってある意味、大人しく社会生活を送られるんだけど、無意識の奥底の「エス」では、満たされたい気持ちでいっぱい。でも、捌け口がないと、ストレスが溜まるもんねえ。そう、「超自我」と「エス」の板挟みになっている「エゴ(自我)」、自分で自分を克服せんとあかんのよ」とニーチェも『ツァラトゥストラ』で書いてるげな。
《動物は性的欲求を性的にしか解決できない。攻撃性を非暴力的に解決することもできない。だが、人間の欲動は柔軟である。自然界が用意していた解決策とは別の行動、要するに代償行為によって欲求を満たすことができ、当初の目的を回避できる。この代償行為による回避をフロイトは「倒錯」と呼んだ(性的倒錯とは異なるので混同しないように注意)。》
 括弧書きに「あはは」。
 そう、その最たるものに、芸術があるんだね。
《創作活動によって抑圧された欲動のリピドー(主に性欲)を爆発させ、間接的に欲求を満たしている。》
 だからだ、岡本太郎は「芸術は爆発だ」と叫んだのは。自然の欲求は文化的・精神的なモノへ「昇華」されるんだね。
 フロイトは宗教についても、こう言う。
《宗教は、強い父に守られていたいという無意識の願望を満たすためのものだ。神は、生物学上の父よりも万能であり、庇護の力も大きい。宗教が危険なのは、神を語るからではない。人々から聡明さを奪い、成長を阻害するからだ》と。
 なあるほど。

10 サルトル
 最後は、実存主義のサルトル。もう、これは学生時代にカブレたので(発疹ではない)、ここで語られていることは全てOK。というか、ちょっと物足らない。
 物足らないなかでも、「アンガージュマン」の記述がないのは、残念。『存在と無』は、存在するものと存在しない者の話ではなく、存在は即自存在、無は対自存在。即自存在は、例えば、ハサミ。これ、紙などを切るために生まれたわけだから「あるところのもの」なのに対し、人間は、対自存在で、「あるところのものでなく、あらぬところのもの」、つまり、ヨシタケシンスケの『なつみはなんにでもなれる」なのだ。そう、生まれた時、何のために、何に役立つために、何が目的で、そんなこと何もなしに生まれてきている。だから、自由であることを余儀なくされる、即ち「人間は自由の刑に処せられている」わけだ。
 そう、自由とは安易なものでも、心地よいものでもない。それは、名作文学『嘔吐』に表現されている。『存在と無』は難しいが『嘔吐』は分かりやすいぞ。
 何にでもなれるとは、何になるか、自らの意志で選択しなければならない。それは、前にキルケゴールで書いた「理性」による「選択」ではなく、「えいや」の「決断」かもしれない。
 そう、その「選択」であろうが「決断」であろうが、行動せねばならない。そこに、社会参加(アンガ―ジュマン)が生まれる。そこまで、書かれてない。
《才能や特性などはあらかじめ決められているわけではない。世界や他者と交わることで徐々につくりあげられていくものだ。(中略)サルトルの言葉を借りるなら、人間は「不定」であり、「不定」とは自由の別名なのだ。》

 以上、10人の哲学者の話、ううん、この著者さんの高校での授業に出席したくなったよ。フランス語の授業か。こう見えてもフランス文学専攻だったからねえ。でも、フランス語は忘れた。あはは。日本も、学校授業にぜひ哲学を必須科目で入れるべきだよ。
 その時は、この本と、『マンガで実用 使える哲学』を合わせて使うべきじゃないかな。
 それにしても、ペンディングにしたヘーゲルをどう捉えるかと、あとは、やっぱし「やりすぎ」ニーチェをもうちょっと勉強せんとあかんかねえ、思った。
 ちなみに、表紙帯に「2時間で読める」と書いてあるけど……。正直2時間では読めん。たとえ2時間で読めたとしても考えずに読むだけだ。哲学できん。
 ボクたちは難しい哲学を避けがちだ。でも、分かりやすいものほど落とし穴があるんだよ。分かりにくい哲学だから、むしろ時代時代の哲学を紐解いて、真理を見出すのでなく、自分の思考回路の一つに組み入れる、そういうことじゃないのかな。そうであれば、「えいや~」って、決断して宗教の径に入った人でも、「このまま神の教えにしたがって生きればいいのだろうか」と、隷属することへの恐怖を感じるのではなかろうか。
 哲学は、自分の生き方を自分で考え自分で行動するための学問である。自分で考えることを教えてくれる学問でもあるので、「ボクはアリストテレスとスピノザとカントとキルケゴールとフロイトとサルトルの考え方を生きる糧にしたいな」で、良いのだと思う。一人に偏るような、一神教崇拝の信仰ではないのだから。ただ、先にも述べたが、ちょっとヘーゲルはペンディングであり、ニーチェは、もっと勉強するよ。
 こんな本が日本の高校の教科書になれば、もっと日本の未来は明るくなるかもしれない。
 

フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者 posted by (C)shisyun


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