つね○わ特集

甚だ不本意ではあるが、急遽予定を変更してつね○わ特集をしよう。何故崇高なこの僕があれほどまで低俗な人間そっくりなゴリラについて記すのか。そう疑問に思う者もいることだろう。しかし僕が崇高だからこそゴリ特集をするのだ。そう、彼の奇跡の進級祝いを兼ねて。
とはいったものの実のところ何も書くことはない。そういえば昨日あのゴリラは「お前はサルか!?」という問いに対して
「そうだよ!!」
と応えていた。また、「お前はゴリラか!?」の問いに対しては
「サルだよ!!」
と応えていた。いや、お前はゴリだよ!!
おっと、僕らしくないことを書いてしまった。つい感情的になってしまったようだ。
結局何が言いたかったかというと、あのような低俗な者が崇高なこの僕と同じく二年生に進級することは誠に遺憾であり、強い憤りを覚えるものである。不当な進級という学校側の極めて悪質な処置に対して告訴することも視野に入れている。

愚かな民主党

最近の僕は機嫌が悪い。原因は民主党にある。やつらは確実にこの国を蝕んでいる害虫のような存在だ。勿論、民主党員の全てが害虫とは言わないが限りなく全てに近いだろう。筆頭は永田議員だろう。「お金に魂を売っている」と言う爆弾質問もどきがあったが、永田議員は欺瞞に魂を売っているではないか。挙げ句は病院に逃げ込み、謝罪にいたってもあくまでも自分の非は認めない。これでは失笑を禁じ得ないどころかコメディーでも見ているかのようだ。そして前原。彼もどうしようもないクズだ。鳩山は少しはできるやつかと思っていたが、あいつも保守的すぎる。改革を推し進めようとする政権に対して保守的なのは野党としてとるべき姿勢の一つの選択肢だが、彼のいけないところは自身の立場に於いても保守的なのだ。つまり鳩山は政治をしているのではなく身の保全をしているだけなのである。マスメディアも野党を攻撃していてはいけないのだ。マスメディアの本来の役割は真実を伝えることだが、政治においてはマスメディアの意味合いが違ってくると思う。政治的なことはマスメディアを通してではなく、政治家が自分で国民に伝えなくてはならないのだ。

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続き

つまり政治面でマスメディアがとるべき姿勢は与党の規制、言うなれば与党への攻撃でなければならない。ただし潰すための攻撃ではなく、あくまでも与党の暴走を制限するためのものだ。そしてそれは思想を交えず、客観的なものでなければならない。にも関わらず現実には野党への批判。しかしこれはマスメディアが悪いわけではない。マスメディアがそのような報道をせざるをえない状況を作っている民主党が全ての元凶である。自民党はといえば、あちらはあちらでいろいろやっているが、真に解決しなければならない問題をなおざりにして話題をすり替えてはいないだろうか。僕の将来のためにも外交の問題をしっかりと解決してもらいたい。でなければ僕が海外へ出たときの地位にも影響があるかもしれないじゃないか。僕が立候補してこの国を正すことはたやすいが、あいにく僕は医者になって莫大な名声と金を手に入れなければならない。
まぁ木南政権という響きも悪くはないか。

バレンタイン

昨日はチョコを貰い過ぎた。崇高な僕のことだからある程度は仕方ないと思っていたが、想像以上に僕を崇拝している人が多いらしい。チョコを貰えなかった低俗な諸君らに分けてあげたいくらいだ。しかしそれでは僕のことを愛してくれている女性のみなさんに申し訳ない。あれだけの量を一人で食べ切るには辛いが、チョコを貰えなかった諸君らの心の痛みを考えるとこのくらいは我慢してやろう。あまりに寛大すぎて自分自身に感涙してしまいそうだ。この発言でまた僕のファンが増えるかもしれない。これはホワイトデーは大変そうだ。ホワイトデーに何もしなくてもいい諸君らが羨ましい。それ以上に諸君らは僕を羨むだろうが。別に男だからといって気兼ねすることもない。その羨みを僕への崇拝へ変えればよいのだ。そうやって心の痛みによるカタルシスのはけ口を用意してやるなんて、僕は思いやりの金メダリストかもしれない。

低俗と崇高

低俗と崇高の違いを考察しよう。低俗な者はこれをよく読み、貴様らと僕との決定的な差を自覚しろ。
本題に入るが、残念な事に世の中には、大変低俗であるのに崇高なものだと誤解を招きやすいものがある。それは宗教だ。お前達の中にも宗教に畏敬の念を抱いている者は少なからずいるだろう。しかし宗教は例外なくどれも低俗なのだ。人は何のために神を信仰するのだろうか。それは自分のためだ。どの宗教にも共通する性質は、「私は現世で苦行をするから神は私をお助け下さい」というものだ。神を信じ、世界平和を祈るのではなく、神から愛される資格を手に入れるために祈るのだ。そして愛された者は「死」という絶対的な恐怖から救済される。もちろん宗教によっては神や苦行、救済などの表現は違うが、その性質はすべて一致する。キリスト教では、自分ではなく隣人を愛せよとあるが、それも自分のために他人を愛するのだ。イスラム教などはその性質が包み隠すことなく露骨な表現になっている。仏教にもその性質はあてはまる。
結局、宗教とは自分が救われたいがために世界を歪めた目で見るという極めて利己的で危険な思想だ。このブログを読んだ信仰者は激怒するだろうが、それこそが宗教の性質の証明だ。

木南講座

今日は低俗な愚民共に勉強でも教えてやろうと思う。
まずは数学だ。
微分から教えてやろう。………と思ったが、説明したところでお前達に理解できるわけがない。ということで積分も無理だろう。その代わりにお前達にぴったりの言葉を教えてやる。
微積分は微かに分かる、分かった積もり」
次は理科だ。
僕の好きな科学者はライプニッツだ。それからファインマンもなかなか好きだ。勿論僕の方が明晰で崇高ではあるが。これで理科の授業は終わりだ。
最後に歴史を教えてやる。
僕は将来、歴史に名を残すことになるからよく覚えておけ。

今回の第一回木南講座はとてもためになったことだろう。反響があれば第二回、三回と講座を開こうと思う。