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霊魂の生命なるキリスト 第1講 の一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるが為に必要なる成聖

2020年07月08日 | カトリックとは
霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるが為に必要なる成聖

―成聖とはキリスト・イエズスによりて天主の生命に与ること

万物の第一原因たる絶対者、被造物界を宰(つかさど)るその御摂理、我等の行為に報い給う最高権威者、万物の究極目的たるものの存在することは人間の理性によって証明されるが、この論理的認識と、これによって明らかにされる造物主と被造物との関係より、人間には造物主に対しまた人間相互間に一つの義務―総括的に自然法と呼ばれ、これを遵守する者には自然宗教的な義務―が生じて来る。しかし人間理性がいかに偉大であろうとも、無限距離の彼岸、不可知の超自然境に在す絶対者なる天主を、直接、完全に知り尽すことは不可能である。「彼は、近づくべからざる光に住み給い、一人もかつて見奉りしことなくまた見奉る能わざる者に在す」(テモテ前6:16)。

然るに天啓は来りて我等を照らし、天主は言うべからざる隣み深き親心を有し給う父なることを告げた。「天主は人の父にて在す」。これは天主の御教の基礎的教義である。ああ 「天主は人の父にて在す」とは、美しくもまた何と大なる教義であろう! この偉大なる教義の前に人の智は考え究むる所を知らず、ただ困惑するのみであるが、信仰の霊は雀躍たる喜びを禁じ得ないものあるを覚ゆる。

天主は人の父にて在すことと三位一体の奥義。「天主は人の父にて在す」。天主の御手に造られたる光が世の東方に立昇る遮か以前に、天主御父は永遠に御子を生み、これに御自分の生命、神性、完全、至福を伝え給うた。生むとは、自己の存在及び生命を他に与えることである。「汝はわが子なり。我、今日汝を生めり」(ヘブレオ1:5)「光より前に我、胎より汝を生めり」 (詩109:3)。実に生命は独り天主の中に在り、聖子(おんこ)はこれを聖父(おんちち)より与えられこれを受け給うた。これを受け給うた聖子はすべてにおいて聖父と等しく同一にて在す。「神の独子」(ヨハネ1:18)。彼は独子にて在し、聖父と同じ神性を有し、しかも聖父と聖子とは各々固有の特性を有し給い、判然たる位格的区別はありながらも、その間に実在する愛によって一連に結合し、この結合より第三位すなわち聖霊が出で給う。これ、天啓が啓示する至聖三位一体の天主に在し、信仰が識り得る限りの天主の生命の奥義である。この生命の充満と豊けさは、至聖三位の量るべからざる至福、言うべからざる愛と歓喜の源泉であり、しかして天主の愛は、そのすべてを我等被造物にまで分ち与えんと欲し給う。

天主はいかにして自らの生命を我等に伝え給うか。しかし天主はその生命をいかにして我等被造物に分ち与え給うであろうか? 天主は自ら充ち満ち給う御者に在すが故に、他に何物をも必要とし給わない。それで天主が何かなし給うとすれば、それは御自分のためでなく我等人間のためである。しかるに天主の生命は聖父によって御独子に伝えられ、聖父と聖子によって共通の霊に伝えられたが、遂にこれを被造物人間にまで分ち与えんと計り給うた。すなわち止ることを知らぬ天主の愛は、無より抽(ひ)き出し給うた被造物我等人間に御自分の生命を通じ、もって人間を聖化し、御自分の子たらしめ、優しくも「天主の子」なる名をもって呼ばしめ、本来から言えば、子としては聖子イエズス御一人しか有し給わぬ天主は、愛と恩寵によって無数の子を有し給うことになった。

もともとこの恩寵は人祖アダムに与えられたものであったが、不幸にしてアダムは天主の御旨に叛き罪を犯しこれを失った。全人類の元たる人祖の罪は原罪と呼ばれ、その結果は子孫たる全人類―聖マリアを除いては―世に生れ出ずるすべての人の上に及び、人は皆罪の中に天主の敵として生れ、罪の中に死する憐れな者となり果てた。しかるに天主の愛は人をこの不幸より救い上げんと欲し、聖父天主の御懐の中に永遠に生き給う御独子は、人性を取り人となりて世に生れ出で、自ら十字架に磔付けられて死し、もって人の罪を贖い、人類救済の業をなし遂げ給うた。天主が人の救霊の為に十字架上に磔付けられて死し給うとは、何と不思議な大なる愛の御業であろう!憐みの御業であろう!実にイエズス・キリストは人類の救主にて在すのだ。

真の神人イエズス・キリストの御降世。救主イエズスは童貞聖マリアによって人性を取り給い、人性は神性に結合せしめられ、ここに神人イエズス・キリストが人の世に出現し給うたのであるが、神人の結合たるや、人性は人性としてそのままでイエズスの天主の位格に完全かつ最も緊密に属し、天主の生命はそのままで天主の聖子の人性を成したので、イエズス・キリストは完全なる天主にして完全なる人に在すのである。すなわちいかに緊密なる神人の結合はあっても、真の天主にしてイエズスと呼ばれ給う、この真の人キリストが本性より天主の子たり給うことには、何等変化はなく、また変化など有り得ないのだ。しかし永遠の輝きの中に本性よりの天主の御独子が、人性を取って神人として世に生れ、御自分をうけ奉るすべての人の長子、多くの兄弟の頭と樹(た)てられ給いしイエズス・キリストは、人類贖罪の御業によって天主の恩寵を我等の上に回復し、我等に救霊の道を開き給うた。

天主の生命恩寵が我等の中に流入する道筋。今、天主の恩寵がいかなる道筋を通って我等の上に注がれるかを見るに、聖父より聖子に通じたる天主の生命は、また聖子よりイエズスの人性の中に流入し、さらにこれがキリストによりて彼を信じてうけ奉るすべての人に通じ、もってすべての人を聖父の至福なる御懐の中に導き入れるのである。「イエズスをうけし人々には各々天主の子となるべき権能を受けたり」(ヨハネ1:12)。しかしてキリストは地上において人類の贖(あがない)の御業を完成し給うた後、人に先立ちて天に昇り、聖父の懐に入り給うた。「これ、御子が多くの兄弟の中に長子たらんためなり」(ロマ8:29)。

成聖とは。これ以来、我等の成聖すなわち我等が天主の生命を蒙(こうむ)るとは、自ら天主にて在しその中より溢れ出ずる生命を人に分配する仲介者となり給うたキリストより、またキリストによってのみ、これを受けこれを己の内に保ち成長せしむることとなった。別な言をもって言えば、人が、与えられ自ら受入れた天主の生命に与かるに外ならぬこととなった。「与えられ」とは、天王の中においては、言い表わし難い神秘的発生によって聖父より聖子に伝えられたる生命が、天主の外においては、聖子によって御托身の玄義の中に完全なる一致を成せる人性に伝えられ、しかして聖子の人性を通じて人の霊魂に、予定せられたる量に応じて与えられ、受け入れられることを意味する。これ、キリストが人の霊魂の生命にて在し、同時に生命の分配者たり給うゆえんである。

天主の生命に与かれる霊の歓喜と幸福。天主の生命は、その永遠の定めによって決定されているその日―地上において御業の完成するその日―まで教会の中に入り、永遠より予定されたる数に満つるまでのすべての人に与えられる。これら予定せられたる霊魂の大群集は、キリストによって聖父に奉呈され、天主の玉座を囲繞(いにょう)し、活ける永遠の生命の泉より純潔なる浄き至福を吸い、天王の壮麗なる慈愛と栄光とを限りなく讃美し奉る者となり、かくして天主と人との一致は永遠に尽きず、彼等に取って「天主はすべてにおいてすべてにて在す」御者となり給うであろう。これが天主が人の上に有し給う御計画と御業の大体の筋を示す図表であり、天主の聖子イエズスが世に来り給うた目的である。

この偉大なる御業をしかも何の功もなき我等のために天主御自ら計画し給うとは、ただ深き御慈愛による外なきを知らざるを得ない―天主の御慈愛を観想しては、我々に「天主の子」なる名を与え、慈愛の御業を我等の上に実現せしめんがために、卑しく貧しく弱き人性を取り身を低くして世に来り給う無限永遠の存在、生命なる天主を礼拝し高く讃え奉らざるを得ない。
「おお主よ、汝の御業の何と偉大なることよ、汝の御思慮の何と深遠なることよ」と深き感激の叫びを揚げざるを得ないであろう。「わが天主よ、誰か汝に似たるや、汝は我等のために奇しき御業と計(はかりごと)を殖やし給えり、誰も汝に比(くら)ぶべき者なし」(詩39:6)「天主よ、汝は汝の御業をもって我を楽しましめ給う、我は汝の手の御業の前に歓喜の余り身顫(ぶる)うなり」(詩91:5)「この故に我は生くる限り汝を歌わん、我に生命の息あらん限り汝を賞め讃えん」(詩103:32)「汝の光栄を讃えんがためにわが口、終日(ひねもす)賛美に満たされんことを!」(詩70:8)と歌い奉らざるを得ない。






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