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旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2014年4月14日 善き牧者の主日の説教 東京および大阪

レネ神父 

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストは善き牧者、善き羊飼いです。さて、この偉大な真理をもっとよく理解するためには、旧約に登場する多くの羊飼いを思い起こすことが有益です。

【旧約に登場する羊飼い】
アベルは羊飼いでした。彼は天主に嘉せられるいけにえを捧げましたが、彼を殺した兄によって、自分自身がいけにえとなりました。ですから、アベルは、ご自身をいけにえとして捧げられる、司祭としてのキリストの像であり、かたどりなのです。

アブラハム、イサク、ヤコブは羊飼いであり、聖なる民の父祖でした。彼らも多くの羊のいけにえを天主に捧げました。

モーゼは羊飼いでした。義父エトロの羊の群れの世話をしていましたが、ヘブライ人をエジプトの奴隷状態から救い出すという使命のために、天主に選ばれました。彼は、羊の群れを率いていたことから、民を率いる者となり、また民を救う者となりました。このように、彼もまた、キリストの像であり、かたどりでした。

ダヴィドがイスラエルの王になるために選ばれたとき、彼もまた羊飼いでした。

さて、これは、まさにその通りのことなのです。ヘブライ語で「王として支配する」という言葉がまさに、「群れの羊飼いとなる」という意味なのですから。それゆえ、詩篇の「天主はわが牧者」は、「天主はわが支配者、わが王」と訳されることもあります。

【羊飼いの役割】
羊飼いは群れに餌を食べさせて養い、群れを良い牧場に導き、狼やその他の敵から群れを守ります。羊飼いは羊を世話し、羊の名前を、羊飼い自身が羊につけた名前を知っています。

【主イエズス・キリストは養う】
私たちの善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストは、その善き教えで私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。最高の教師である私たちの主は、最高の預言者であり、モーゼの預言で約束された預言者です。「主はおまえの民の中から、おまえの兄弟の中から、私のような預言者をおまえたちのために立てられるであろうから、その者の言うことを聞け。…私は彼らの中におまえのような預言者を立て、その口に私の言葉を置く。私がその預言者に命じたことをすべて、彼が語る」(第二法の書18章15、18節)。この預言は、使徒行録で二度引用されています。ペトロによって一度(3章22節)、聖ステファノによって一度(7章37節)。

私たちの主はまた、ご聖体におけるご自身の肉と血で私たちを養ってくださいます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章56-57節)。

【主イエズス・キリストは良い牧場に導き守る】
私たちの主は、まずご自身の模範によって、また新しい法を与えることによって、ご自身の掟の道で導いてくださいます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天国への道で最高の導き手である私たちの主は、王の中の王であり、羊飼いの中の羊飼いなのです。

【主イエズス・キリストは汚れなき小羊といういけにえであり、自分を捧げる】
そして最後に、私たちの主は、ご自身のいけにえを捧げられます。主は、汚れなき小羊といういけにえであると同時に、「将来の恵みの大司祭」(ヘブライ9章11節)として、いけにえを捧げるお方でもあります。

【主イエズス・キリストは司祭であり預言者であり王】
私たちの主イエズス・キリストは、司祭であり預言者であり王です。これら三つの役割は、キリストのかたどりである旧約の偉大な羊飼いたちによって行われていました。注目すべきなのは、これらの三つの役割には、聖香油を注ぐことも必要だったことです。

アロンはモーゼによって、エリゼオはエリアによって、ダヴィド王はサムエルによって油を注がれました。ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語(とラテン語)では「キリスト」という言葉は、聖香油を意味する「クリスマ」に由来します。私たちの主イエズス・キリストは「油を注がれた者」です。物質としての油を注がれたのではなく、ご托身そのものによって、主の神性が人性に完全に浸透していき、唯一無二の方法で聖別されたのです。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだがために、天主は、あなたの天主は、あなたの同胞の誰にもまさって、あなたに喜びの油を注がれた」とメシア詩篇の44篇(8節)は言います。

【三つの霊印の刻印】
さて、三つの秘跡が、司祭、預言者、王としてのキリストと私たちを一致させる霊印を刻印し、このしるしは、その秘跡を執行する際に聖香油を使うことによって示されます。その三つの秘跡とは、洗礼、堅振、司祭職です。洗礼志願者は、洗礼水で洗われる前、最後に「洗礼志願者用の聖油」を塗られることで洗礼の準備をし、洗礼水で洗われた後、司祭は新たな受洗者の頭頂部に聖なるクリスマを塗ります。また堅振の秘跡は、本質的には、司教の言葉とともに聖なるクリスマを塗ることにあります。司祭叙階においては、司教は司祭の両手に「洗礼志願者用の聖油」を塗って、親指と人差し指に特別な方法で聖油を塗ります。また、司教の聖別式では、モーゼがアロンに行ったように、聖別する司教が、司教となる者の頭の上に聖なるクリスマそのものを注ぎます。

洗礼の霊印は、人を、私たちの主イエズス・キリストの賜物を受けることができるようにします。ですから、新たな受洗者は、王たるキリストの導きを受け、その御国の市民となり、キリストの法、すなわち永遠の命へと至る命の法に従うのです。また、新たな受洗者は、聖ヤコブが言う(1章21節)ように、「あなたたちの霊魂を救うことのできる言葉を、(最高の教師であるキリストから)素直に受け」るのです。そして、新たな受洗者は、個人的な犠牲(「毎日の小さき犠牲」)を捧げ、大司祭たるキリストからご聖体を受けることができる能力を受けるのです。

次に、堅振を受けた信者は、堅振の霊印によって、大司祭であり預言者であり王であるキリストから受けたものを守ることができるようになります。この信者は、王たるキリストの兵士となり、最高の預言者たるキリストの真理の証人となり、大司祭たるキリストとともに殉教して自分の命を捧げる用意があるのです。

【主イエズス・キリストは役務者を通して群れの世話をされる】
そして、司祭であり預言者であり王であるキリストと共にあずかる最高のものは、叙階の霊印によって受けるものです。人は、王たるキリストの役務者となり、善き羊飼いであるキリストの御名によって群れの世話をします。人は、預言者たるキリストの真理の教師となります。また、人は、大司祭たるキリストの役務者となり、最高のいけにえを、十字架上の私たちの主イエズス・キリストという天主の小羊のいけにえを捧げます。その段階においては、人は司祭であり預言者であり王であるキリストの賜物を、実際に与えるのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストが、ご自身の群れの世話をされるのは、預言者エゼキエルによれば、特に役務者を通してです。「主なる天主はこう仰せられる。私は自分で群れを心にかけ、世話をしよう。羊飼いがその散っている羊とともにいるとき、群れを心にかけているように、私は自分の羊を世話し、霧と闇のときに散ったところから救い出す。私は、もろもろの民の中から彼らを引き揚げさせ、各地から寄せ集め自分の地に導きかえし、イスラエルの山々の上、水の豊かな谷の中、その国のすべての草原で牧する。私は肥えた牧場(まきば)に彼らを導く。その住まいは、イスラエルの高い山の上となる。彼らはここで、良い檻(おり)の中に住み、イスラエルの山々の上に豊かな牧草を見いだすだろう。私は自分で羊を牧し、彼らを休ませる、と主なる天主は仰せられる。私は失ったものを捜し出し、迷ったものを連れ帰り、傷ついたものを巻き、弱ったものを強め、よく肥えた強いものを守り、よろしく彼らを牧そう。私の群れよ、あなたたちについて、主なる天主はこう仰せられる。見よ、私は羊と羊の間の、雄羊と雄山羊の間のことを裁く」(エゼキエル34章11-17節)。

よき羊飼いであるキリストの使命を継続させるためには、刈り入れの主がご自身の刈り入れに働き人を送ってくださるように、また、聖職者全員が真に善き羊飼いになるように、抜きん出た善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストの役務者になるように、多く祈る必要があります。「私たちをキリストの役務者、天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。この「忠実」という言葉は、聖パウロがキリストの役務者に要求しているすべてのことを要約しています。天主の御子ご自身によって啓示された不変の真理であるキリストの教えに対して忠実であること、キリストの聖性の模範に対して忠実であること、私たちの主イエズス・キリストの道徳に対して忠実であること、キリストの霊に対して忠実であること、一言で言えば、カトリックの聖伝に対して忠実であることです。これこそが、聖ピオ十世会の戦いなのです。皆さん、私たちが忠実であるように、私たちのために祈ってください! これは、自動的に与えられるものではなく、皆さんの祈りと私たちの努力が必要なのです。忠実であるためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が私たち全員に必要であり、それによって私たちは、皆さんが「満ち満ちる天主によって満たされる」(エフェゾ3章19節)ために、皆さんに対する天主の奥義の管理者となるのです。

【善き牧者の御母に祈る】
善き牧者の御母に、特に祈りましょう。キリストの霊を持つ人がいるなら、それは童貞聖マリアです。聖母は大司祭の御母であり、すべてのカトリック司祭の母です。私たちが、良き牧者として、また天主の奥義の忠実な管理者として、御子に忠実であるように、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように。それによって皆さんが、また私たちも皆さんとともに、天国に行くことができますように。アーメン。



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