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ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

2023年03月19日 | カトリックとは
ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

In defence of Archbishop Lefebvre
2023年3月4日 FSSPX.NEWSサイト



愛する兄弟姉妹の皆様、

フランソワ・レネ神父(聖ピオ十世会)によるとても良い記事を日本語でご紹介します。これは、「イテ・ミサ・エスト」(Ite Missa Est)【聖ピオ十世会英国・スカンジナビア管区の雑誌】の2023年3・4月号に掲載された論文です。

はじめに

数カ月前まで、私はニュージーランドにいて、教会に関する論争の最前線から遠く離れていました。しかし今は、英国で新しい任務に就いており、ある同僚から、当会の教会法上の地位と教会との関係に関する疑念に悩まされている信者たちを助けることはできないだろうかと依頼されました。そのため、ここに省察をいくつか記しました。天主の聖寵により、それが信者の皆さんの助けになればと願っています。

聖ピオ十世会に対する態度は、活動のやり方に関する軽い意見の相違から、ルフェーブル大司教を異端そのものだと非難するような、中傷(重大なことで誰かを非難するが、しかし虚偽の非難)に終わる敵意まで、さまざまなものがあります。私は、このような非難がいかに虚偽であるかを示し、第二バチカン公会議後の困難な時代における大司教の超自然的な賢明さを、読者の皆さんに納得していただければと願っています。

1.少し歴史を振り返る:1960年代の典礼革命

信者席の信者、敬虔な信者にとって、1960年代はすべてが変わり始め、特に典礼において混乱が支配した時代でした。それは真の典礼革命でした。まず、少しの俗語【各国語】、次に、ここそこで俗語が増えていき、次に、あれやこれやの祈りの削除(例えば最後の福音)、次に、立ったままの聖体拝領、次に、逆向きの祭壇、次に、いくつかの場所での手による聖体拝領、次に…、次に…、次に、…、信者は、次の主日にはどんな新奇なものが出てくるのか分かりませんでした。ミサ典礼書はA、B、C年の週報【日本では「聖書と典礼」】に取って代わられました。信者の持っていた古いミサ典礼書は、価値がなくなってしまいました。より敬虔な信者たちは、新しいミサ典礼書を買いました。しかし、小教区ごとに異なっていたため、あまり役に立ちませんでした…新しいミサは、他の多くの改革の中の一つにすぎなかったのです。

私の経験では、信者たちがさらにショックを受けたのは、敬虔に捧げられた新しいミサそれ自体よりも、信者たちの信仰と信心にとって嫌悪すべきもの、手による聖体拝領でした(信者たちには、カルメル神父(ドミニコ会)といった司祭のように、それを研究する真の方法がなかったからです。「イティネレール誌」(Itinéraires)にある同神父の記事を参照)。

教会を愛するすべての良き信者にとってはつらい現象は、手による聖体拝領と同じぐらい重大で悲しむべき、あらゆる種類の新奇なものを導入した不従順な司祭たちが、「長上から」の支持を受けていたため、自分たちの不従順はとがめられることがなかったのですが、一方で、良き教理を説き、自分の小教区では手による聖体拝領を許さず、ミサでギターを使わせずグレゴリオ聖歌を使う忠実な司祭たち、これらの忠実な司祭たちは、その地位を追われ、降格され、時には早期の引退に追い込まれたということです。同じことが今日でも起こっています。例えば、フランスのトゥーロン教区のレイ司教は、自分の教区で(規模に比例して)フランスのどの教区よりも多くの召命を得ていましたが、昨年6月にローマから、司祭叙階を延期して未定にするよう求められました。

私の【出身地の】小教区、ルーアン近郊のビオレルにある天使の聖母教会では、主任司祭は市内の別の小教区の第二助任司祭とされ、助任司祭は教区のはずれに送られました。2人とも良き司祭であり、説教は正統的で、スータンを着続け、手にご聖体を授けることはせず、ノブス・オルドのグレゴリオ聖歌の本がない時期にはクレゴリオ聖歌の聖歌隊を守り、テキストが朗読と合わないにもかかわらず(!)聖伝のテキストのままをよく歌ったものでした。その小教区からは、5人の聖伝の召命が生まれました(4人はルフェーブル大司教によって叙階されました)。

この2人の司祭が新奇なものから小教区を守ってきましたが、彼らの後任は「移行期の司祭」であり、その新奇なものをすべて持ち込みました。そこで、脱出が始まりました。私の家族はその小教区を離れ、再び聖伝のミサを見つけるまで、保守的な司祭を探しました。母は当時、こう言っていました。「それまでの変化は、崖の上からゆっくりと降りてくるようなもので、聖伝のミサを再び見つけたときは、自分が崖の下にいて(ルーアン近くのセーヌ川の北岸には高い崖があります)、見上げてみて、自分が実際にどれだけ降りてきたかを実感したように思ったのよ」と。

1975年の私の家族のように、早くから聖伝のミサを見つけていた信者もいれば、もっと早かったり、もっと遅かったりした信者もいます。しかし、そのすべての人にとって、聖伝のミサを見つけることは、「これこそ、私たちが奪われてきた宝だ!」という目を開かせる体験だったのです。今日でも、多くの人々が、聖伝のミサを発見すると、同じ反応を起こします。1970年以降に生まれた人々でさえもそうです。それは、しばしば人生の転機となります。聖伝のミサは、教会の中心であり、教会の最大の宝であり、荘厳さと実りのすべてにおいて実践に移されたカトリック信仰なのです。

2.もう少し歴史を振り返る:聖ピオ十世会の始まり

この混乱が、単に典礼の領域にとどまるものではなかったということを記しておくのは、重要なことです。それ以上に重要なのは、それは信仰の問題だったということです。聖職者にとって、公会議は、曖昧さをもって、時にはあからさまな誤謬をもって、しばしば信仰を希薄にするという、この世に対する開放性を導入しました。その開放性は、霊魂に計り知れない損害を与えることになる「『自らを天主とする人間』の宗教への好感」(パウロ六世、1965年12月7日)を持つことを奨励したのです。

【注:パウロ六世の公会議閉会の言葉「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。…私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」】

信者のレベルでは、60年代後半に、カトリックの教理から大きく逸脱したカテキズム(オランダのカテキズムなど)や、単に基本的な教理を教えないカテキズムが登場し始めました。今日の「カトリック信者」の若者で、基本的なカテキズムを知っている人がどれだけいるでしょうか? 本当に多くの若者が、正しく教えられたことのない信仰を離れていることに驚く必要はないでしょう。1969年、私が8年生【12歳。フランスでは6歳になる年に小学校に入学する】のとき、司祭が、私たちカテキズムのグループを自分のオフィスに連れて行き、「私に何について話してほしいですか?」とだけ言ったのを覚えています。私は行くのをやめました…カトリックの学校で教師をしていた私の父は、子どもたちに基本的なカテキズムを学ぶことができるように、自分たちでカテキズムを教えることを組織した親たちのグループの一員でした。父は司教から「教会法上の派遣(canonical mission 教会法的身分)」を与えられてはいませんでしたが、カトリック信者の父親としての義務を果たしていたのです(天主は、5人の子どもたちから3人の司祭を出すことで父を祝福してくださいました)。

同時に、神学校の状況もひどいものでした。近代主義者たちは追い風を受けて、限界を知りませんでした。正統信仰を守ろうと望む人々は脇に追いやられ、しばしば神学校を去っていきましたが、いずれにせよ、神学校は、召命に欠けていたため、すぐに閉鎖されてしまいました!

本当に多くの人々が破壊を行っている一方で、ルフェーブル大司教は教化活動をしていました。1969年、シャリエール司教の下でフリブールに学び舎を開設し、1970年にはワリス州(ヴァレー州)(スイス)のシオン教区のアダム司教の認可を得て「霊性の家」としてエコンを開設、翌年には同じ司教からエコンを本格的な神学校とする認可を得ています。ルフェーブル大司教が1970年に初めてアダム司教に認可を求めたとき、アダム司教はこう答えました。「私たちの教区にはまだ三つの神学校がありますから、エコンを神学校として認可することはできません。しかし、少し異なる『霊性の家』はありませんから、エコンを『霊性の家』として認可します」。

しかし、(新しいミサが導入されたばかりの)1970年にフリブールのカトリック大学の状況が悪化し、良い教師と悪い教師が混在していたことから、ルフェーブル大司教は良い教師だけを選んでエコンに連れて来ることにし、そのためエコンが本格的な神学校になることを認めるようアダム司教に再度依頼しました。アダム司教はこう答えました。「昨年、神学校の許可を出さなかったのは、教区にまだ三つの神学校があったからです。昨年、二つの神学校が閉鎖されました。ですから、今年はエコンを本格的な神学校にする許可を出します」。私はこの事実を、関係者のすべてを非常によく知る1970年代初頭の神学校の校長、カノンであるベルト神父から聞きました。

この小さな出来事は、ともて重要でした。新奇なものを導入すれば衰退につながり、聖伝に忠実であれば生命と成長につながるのです。このパターンは、過去50年間、世界中の多くの場所で何度も何度も繰り返されてきたことが分かっています。

聖ピオ十世会は、認可されたから善だったのでしょうか、それともむしろ善だったから認可されたのでしょうか? 正しいトミズム的な答えは、ある行為の第一にして本質的な善はその客体から来る、というものです。外的な認可は、ある種の外来的な善を加えますが、第一にして本質的な善を構成するものではありません。

その反対に、多くの神学校で行われている近代主義の教えは、たとえ教師が長上からの教会法上の派遣(missio canonica)をもって「認可」されていたとしても、客観的には悪のままにとどまります(多くの人の信仰を破壊しています)。教会法上の派遣は、全時代の信仰に反する教えをカトリック的にするものではありませんし、することもできません。

事業の最初がルフェーブル大司教から出たものではない、ということを記しておくのは重要なことです。著名なカトリック信者たち(聖職者や平信徒)が、ルフェーブル大司教に神学生のために何かをしてくれるように促しました。後に、大司教が神学生たちに与えている良い精神を維持するために、神学生同士のつながりを作ってくれるように大司教に促したのは、神学生たちでした。ですから、すべてのことが秩序に従って行われるようにと、大司教は教会法上の認可を求め、そして最初に、その認可を得たのです。

ルフェーブル大司教は、真の教会人として、シャリエール司教を通じて、聖ピオ十世会が教会から正式に認可されることを常に重視していました。大司教の表現はこうでした。「nous sommes d'Eglise――私たちは教会に属しています」、教会の子として、教会の肢体として、教会という木にしっかりと接ぎ木された生ける枝として、ということです。聖ピオ十世会の廃止を常に無効と考えていたからこそ、大司教はその仕事を続けたのです。もし大司教が廃止を有効だと考えていれば、大司教は続けなかったことでしょう。見かけ上は廃止は有効であるかのようでしたが、真実においてはそうではなく、天主の御目にはそうではなかったのです。

3.聖ピオ十世会の認可に関する教会法についての若干の考察

聖ピオ十世会の会憲は、第1条でこう言っています。「兄弟会は、誓願のない共同生活をする司祭会である…」。聖ピオ十世会は、単なるピア・ウニオ(敬虔な団体 pius union)であったと言う人々もいます。彼らの反論は、この混乱が記されているシャリエール司教の書簡に由来するもので、書簡は、聖ピオ十世会はピア・ウニオ(敬虔な団体)として教区に建てられていると言っています。どう考えればいいでしょうか?

私の意見では、この問題を最もうまく扱っているのは、トマス・グラバー神父(教会法博士)です。以下は彼の中心となる主張です。

1.事の性質上、ピア・ウニオ(敬虔な団体)は、会員を、彼らの活動の一部、ある種の特別な善行(祈りなどを含む)のために縛る。誓願のない共同生活の会は、誓願よりも低い絆で、会員が福音的完徳に向かうのを助けるために、会員の全生活を縛る。

2.教会法は、平信徒に関する第三部で敬虔な団体(pious union)を扱っているのに対し、誓願のない共同生活の会に関する条項は、修道者に関する第二部にあり、二つの全く異なる章にある。

3.シャリエール司教は、聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを正確に記した会憲を認可し、こうしてその地位を認可した。

しかし、シャリエール司教が認可した聖ピオ十世会の実態は、単なる「敬虔な団体」(pia unio)ではなく、むしろ会憲で正しく定義されていたもの、すなわち「誓願のない共同生活の会」だったのです。

さらに、もし聖ピオ十世会が単なるピア・ウニオ(敬虔な団体)にすぎなかったとすれば、廃止行為は使徒座の介入を要求することはなかったでしょう(ただし、不服申し立てを聴くことは除く)。さらにまた、教区長が確実性のために使徒座の助言を求めたとしても、ピア・ウニオ(敬虔な団体)はその部門には属さないため、修道者聖省(Sacred Congregation for Religious)はその権限を有さなかったでしょう。モンシニョール・マミーが修道者聖省に相談したという事実そのものによって、彼は聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを暗黙のうちに認めたのです。

もう一つ、非常に重要な法の原理があります。「favorabilia sunt amplianda odiosa restrigenda――好ましいことは広く解釈されるべきであり、好ましくないことは厳格に解釈されるべきである」。なぜ、シャリエール司教の意図を、彼ができる限り認可しないように意図したかのように、最小限にするのでしょうか? その反対に、法の原理は私たちに、彼ができる限り良き仕事を支援したがっていたと解釈するように義務づけています。それ以外の態度は、新約の法の中心である愛徳ではなく、ルフェーブル大司教と彼の聖ピオ十世会に対する悪意を示しています。

4.聖ピオ十世会の違法な廃止:1975年

ルフェーブル大司教は、1969年に9人の神学生から始め、5年後には約90人になりました。フランスの司教たちは心配し始め、伝統的な方法で訓練された司祭を望まず、エコンが「野良犬神学校」(séminaire sauvage)であるかのような中傷キャンペーンを始めたため、バチカンは視察を命じ、それは1974年の秋になされました。バチカンからの視察者たちは、視察した内容に満足したと言いましたが、視察者たちは、何人かの神学生との会話の最中に、主の復活の教義に対する疑いやその他のつまずきを与えるような意見を述べました。そのため、ルフェーブル大司教は1974年11月21日、美しい宣言を発表したのです。

1975年2月、大司教は3人の枢機卿(タベラ、ライト、ガロンヌ)からなる委員会に招集され、視察について「おしゃべり」しました。会話はすべてルフェーブル大司教がした宣言に関すること向けられました。

そして、1975年5月6日付のモンシニョール・マミーの書簡が届き、彼は同日までに、自らの権限で「前任者の行為と譲歩を撤回する」と述べました。教会法は、彼はその権限を持っていないと言っています。司教は、誓願のない共同生活の会を廃止する権力を持ってはいません。司教は、認可することはできますが、いったん認可されれば、それを廃止できるのはローマだけなのです。

同日付の3人の枢機卿からの書簡は、マミー司教は自分が行ったことを行う権利を持っているが、それは客観的に見て教会法に反することである、と宣言したにすぎません。

ルフェーブル大司教は6月5日、この手続きに対して不服申し立てを行いました。6月10日、スタッファ枢機卿は、教皇がこの問題については自らの権限とした、という口実のもと、この不服申し立てを却下しました。6月14日、ルフェーブル大司教は2度目の不服申し立てを行い、この件の文書を要求しました。ヴィヨ枢機卿がスタッファ枢機卿に回答しないように命じたため、大司教は、この2度目の不服申し立てに対する回答は得られませんでした。

それ以来、この2度目の不服申し立ては係争中であり、教会法によれば、このような不服申し立ては「保留状態」(suspensive)となります。つまり、聖ピオ十世会を廃止する決定は、不服申し立てに答えるまで保留されているのです。したがって、現実には廃止はなく、廃止のように見えるだけなのです。

しかし、廃止のように見える以上、大司教はあらゆるところで、いかなる支援も拒否されることに直面しました。

5.善きサマリア人のジレンマ

ルフェーブル大司教は、このような反対に直面した場合、戦いを放棄し、すべての神学生を自宅に戻し、すべての仕事を閉鎖することも十分に可能でした。大司教は、自分のためだけに、信仰とミサを維持することができたでしょう。神学生たちと、すでに大司教を助けていた数人の司祭に、自分たちの面倒は自分たち見させればよかったのです。もし、他の多くの司教が神学校で聖伝に忠実に若者たちを育成していたなら、大司教は喜んでそうしていたことでしょう。しかし、1975年に、大司教は、これらの若者をどこに送ることができたというのでしょうか?

キリストの愛が大司教をしめつけていました(コリント後書5章14節)。大司教は、多くの霊魂が聖伝の教理と典礼を守る良き司祭を必要としていることを十分に認識していました。善きサマリア人(ルカ10章30-37節)のように、大司教は、教会の危機によって傷ついたこれらの霊魂が、道端に半死半生で放置されており、その地の司祭やレビ人は通り過ぎ、世話をしなかったのを見ました。大司教は、その霊魂たちにとってはよそ者でした。大司教は、自分の世話は自分でするようにと彼らを見捨てたのでしょうか、それとも、彼らが請い求めている助けを提供したのでしょうか? 大司教は彼らの世話をしたのです!

ルフェーブル大司教を理解するためには、善きサマリア人の模範を把握することが不可欠です。教会の教父たちはしばしば、私たちの主ご自身がこの善きサマリア人のようであった、と述べています。主の家は天国であり、主は私たちにとってはよそ者として、地上に来られました。旧約の司祭やレビ人は、傷ついた人の世話をしませんでしたが、主は世話をなさいましたし、さらに、ぶどう酒(主の尊き御血の象徴)と油(聖霊の賜物の象徴)をお与えになり、傷ついた人を教会の象徴である宿に連れて来られました。

それ以降、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を継続させたのは、本質的に言えば、善きサマリア人の愛の答えだったのです。つまり、傷ついた霊魂に手を差し伸べ、自分が受けた賜物、司祭職だけでなく後には司教職さえも、他の人々に伝え、これらの霊魂を新しいセクトではなく、唯一のカトリック教会に導くということだったのです。

彼はその地域の裁治権を持っていなかったのではないか、と大司教を非難する人々がいます。後ほど、その疑問に戻りますが、そのような反論は、あたかも司祭とレビ人が戻って来て善きサマリア人をとがめ、ユダヤでは何の権利もないよそ者だったと非難するようなものです。

6.ミサの問題:1976年

当時、ミサをめぐる戦いは激しくなっていました。ブニーニは、「パウロ六世のローマ・ミサ典礼書の義務的性質に関する通達」(1974年10月28日)を、すべての司教協議会に宛てて発表しました。この通達の中で(そして他の文書の中でも)、聖伝のミサを捧げることを明確に禁止しており、例外は75歳以上の司祭で、その場合は一人の侍者と二人きりで私的に捧げることとしていました。この通達は「使徒座公報」(Acta Apostolicae Sedis)に掲載されることはありませんでした。この通達には、教会法上の価値はありません。自らの至高の使徒継承の権威の全ての重みを行使して、すべての司祭に「永久に」聖伝のミサを捧げる権利を保証した教皇聖ピオ五世の教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)を、一人の単なる秘書が、このような小さな通達で、どうして覆すことができるというのでしょうか? できるはずがありません。

しかし、多くの司教はこの小さな通達を使って、聖伝のミサを守ってきた司祭を追及し、小教区から追放するなどしました。私は思い出しますが、シドニーのフォックス神父が、50周年記念ミサの説教の際、「ラテン語ミサは禁止される」(Latin Mass forbidden)という見出しのついた、当時のシドニー・モーニング・ヘラルド紙の一面を見せ、こう付け加えました。「私はそのミサを守りました!」と。私の教区では5人、祖父の教区では4人など、そのミサを守った多くの良き司祭がいました。フランスや多くの国々にそのような司祭が何百人もいましたが、割合的にはほんの一握りで、それでも彼らは、ミサを求める信者のためにそのミサを与える勇気を持っていました。教皇ベネディクト十六世は、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、聖伝のミサは決して禁止されていないと明確に述べ、こうして、勇気ある司祭と信者の正当性を証明しました。

しかし当時、多くの霊魂はひどく見捨てられたと感じていました。「子どもたちがパンを求めても、裂いて与える者はない」(哀歌4章4節)。「私の目は涙につぶれ、私のはらわたは煮えたぎり、民の娘の傷を見て、私の肝は地に注ぎ出される。彼らは『小麦とぶどう酒はどこにあるの』と尋ねる。彼らは、町の広場で弱りはて、母のふところの中で、息絶える」(哀歌2章11-12節)。

善きサマリア人のように、傷ついた霊魂に手を差し伸べた司祭たちは幸せです! 「あなたたちは、私が飢えていたとき食べさせ、渇いていたときに飲ませ、…病気だったときに見舞ってくれた…まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35-40節)。

ルフェーブル大司教は、神学校で私たちにこう述べました。「私は、審判の日に私たちの主が私に対して、『おまえは、他の者たちと一緒に私の教会を破壊した!』と言われるのを聞きたくなかったのです。もし神学校を閉鎖していたなら、私は教会の破壊に加担することになったことでしょう」。教会が破壊されるのはあり得ませんが、このような新奇なものによって多くの霊魂が失われてしまったのです。

ですから大司教は仕事を継続しました。1976年には司祭叙階予定者が13人になりました。その後、彼に対する圧力は強まり、叙階を行わないよう促されました。国務長官代理のモンシニョール・ベネリは、大司教に対して教皇の名で6月25日付の書簡を書き、「公会議の教会への」忠実さを要求しました。この「公会議の教会」(conciliar church)という表現は、この書簡に由来するものです。ルフェーブル大司教はこう述べました。「その教会とは何でしょうか? 私は『公会議の教会』など知りません、私はカトリックですから!この表現が意味する現実とは何だったのでしょうか?それは間違いなく、カトリックの精神とは異質で、キリストの神秘体の中にいるウイルスのような新しい精神です。第二バチカン公会議のあらゆる新奇なものを、疑うことを知らないカトリック信者に押し付けようとするものでした」。

大司教は、1976年6月29日の叙階式の説教で、こう説明しています。「もし、客観的に言って、私たちにこれらの叙階を行わないよう求める人々を動かしている真の動機を探し求めるならば、…それは、彼らが全時代のミサを唱えることができるように、私たちがこれらの司祭を叙階しているからです…それははっきりしています、エコンとローマの間のすべてのドラマが、ミサの問題にかかっていることは明らかです…実際、ローマから派遣された、私たちに儀式の変更を求める人々の主張が、まさに私たちを怪訝に思わせています。そして、このミサの新しい典礼は、新しい信仰を表現しており、まさに私たちの信仰ではない信仰、カトリックの信仰ではない信仰だという確信を持っています。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義の信仰の象徴であり、表現であり、かたどりなのです。

いとも聖なる教会が、聖ピオ五世によって列聖された聖なるミサの典礼という、教会が私たちに与えたこの貴重な宝を何世紀にもわたって守ろうと望んだとすれば、それは決して目的がなかったわけではありませんでした。それは、このミサの中に、私たちの信仰全体、すなわちカトリック信仰全体が含まれているからです。至聖なる三位一体への信仰、私たちの主イエズス・キリストの神性への信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の贖いのために流れ出た私たちの主イエズス・キリストの御血への信仰、ミサの聖なるいけにえから私たちにもたらされ、十字架から私たちにもたらされ、すべての秘跡を通して私たちにもたらされる超自然の聖寵への信仰です。

これこそ、私たちの信じているものです。これこそ、私たちが、全時代のミサの聖なるいけにえを捧げるときに信じているものです。これこそ、信仰の教訓であると同時に、私たちの信仰の源泉であり、私たちの信仰があらゆる方面から攻撃されているこの時代の私たちにとって欠くことのできないものです。私たちには、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主イエズス・キリストの強さで本当に満たすために、この真のミサが、この全時代のミサが、この私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。

さて、新しい典礼は、私がそう言えるとすれば、カトリックの宗教とは別の概念、すなわち別の宗教を仮定していることは明らかです。ミサの聖なるいけにえを捧げるのは、もはや司祭ではなく、集会なのです。さて、これがプログラムの全体、つまり全プログラムです。今後、教会の権威に取って代わるのは集会でもあります…ゆっくりと、しかし確実に、プロテスタントのミサの概念が聖なる教会に導入されているところなのです」。

7.最初の制裁

当時のメディアは、ルフェーブル大司教の事件を大きく取り上げていました。メディアは大司教の破門を推し進めていたようですが、1976年7月22日に聖職停止の処分が下されただけでした。このこと自体が、ルフェーブル大司教を当時から離教者であったと告発する人々に反論するものです。それが本当であれば【離教者であれば】、その時に与えられた罰は意味がないものになってしまいます。

その罰について、ルフェーブル大司教は次のように述べています。「それは、聖なるミサを捧げ、秘跡を授け、聖別された場所で説教するという、すべての司祭、さらにはすべての司教に固有の権利を私から奪っています。つまり、私は新しいミサを捧げ、新しい秘跡を授け、新しい教理を説教することを禁じられているのです」。

大司教はこの罰に従いませんでしたが、その理由は、その罰が聖ピオ十世会の廃止を前提としていたものであり、廃止は手続きの欠陥のために無効だったからです(上記の2回の不服申し立てを参照)。さらに、大司教は、基本的な自然の正義が欠如していると述べました。つまり、法廷はなく、正確な告発はなく、弁護の権利はなく、第三者の利益を損なっていた、などです。しかし、根本的には、超自然のレベルにおいては、聖ピオ十世会に対して取られた措置を動機づけていたのは、大司教が教会の教理的・典礼的聖伝に愛着を持っていたことと、新奇なものに反対してそれらを拒絶していたことでした。そのため、まさにその根底において、これらの措置は法的に無効であり、したがって存在しなかったのです。

1976年の叙階式に関するすべての報道は、御摂理的なものでした。不変のカトリック信仰に愛着を覚える世界中の多くの信者や司祭が、大司教の模範によって大いに励まされました。以前は、彼らにとって非常に暗い状況でした。年配の司祭たちによって行われる聖伝のミサは、その司祭たちが死んでいなくなれば、その後どうなるのでしょうか? しかし、その後、一人の司教がいて、自分たちのためにミサを守ってくれることになる若い司祭たちを訓練してくれていることを、彼らは知ったのです! 大司教は、彼らに希望を与えたのです。ここで、クローヴィス・アレウイの証言をご紹介したいと思います。彼は、ニューカレドニアの奥地に住むカナック族(グアラウイ町)の族長です。彼は1976年にルフェーブル大司教のことを聞きましたが、彼の反応はこうでした。「あの司教のどこが間違っているんだろうか? 彼は聖伝のミサを唱えているのだから、良い司教に間違いない!」。その後、ヌメアの司教座聖堂でスキャンダルがあった後(1980年頃)、彼はエコンに償いのミサを求める手紙を書き、その手紙の最後にこう記しました。「あなたは聖伝のミサを唱える司祭を養成なさっています、あなたは私たちの希望です!」。その頃までに、ルフェーブル大司教は、世界中から召命を受け入れていました。私は1976年10月にエコンに入学しましたが、19カ国もの国籍の人々がいました。神学校は満員でした。

このように、ルフェーブル大司教が、断罪【破門】されたように思われるときでも活動を続けた根本的な理由は、カトリック信仰への忠実さでした。自分のために聖伝を守るだけでなく、教会の多くの霊魂が信仰を守るのを助けるためだったのです! 大司教はこう書いています。「隷属的で盲目的な従順によって、教会を破壊する彼らの仕事に私たちを協力させたがっていた人々のゲームに、どうして私たちが協力できるというのでしょうか?…したがって、私たちは、何があってもカトリックの司祭職を復興させる私たちの活動を継続させるという固い決心を立てました。教会、教皇、司教、そして信者に、これにまさる奉仕はできないと確信しています」。

8.真の従順と偽りの従順

三大対神徳である信仰、希望、愛は、過剰になることはあり得ません。人は、啓示された真理を固守しすぎることも、天主の御助けを信頼しすぎることも、天主を愛しすぎることもあり得ません。他のすべての徳は道徳的な徳であり、それらの徳は不足と過剰の間の適切な度合いにあります。剛毅の不足(弱さ)があったり、剛毅の過剰(暴力や軽率さ)があったりすることはあり得ます。このことは、特に従順の徳に当てはまります。真の従順の徳は、合法的な命令を実行しない不従順という不足と、違法な命令に従う隷属という過剰の間の適切な度合いにあります。隷属の典型例は、聖なる幼子を殺害した兵士たちです。

聖トマスは、この問題を明確に取り扱っています。「目下はすべてのことにおいて長上に従う義務があるか」。彼は明確に「いいえ!」と答えています。「こう書かれている(使徒行録5章29節)。『私たちは人よりも天主に従うべきである』。さて、時には、長上によって命じられたことが、天主に反することもある。それゆえ、すべてのことで長上に従うべきというわけではない」。そして、こう説明しています。「目下がすべてのことにおいて長上に従わなければならないとは限らない理由が二つある。第一に、さらに高い権力者の命令を理由にする場合。第二に、目下は、長上が自分を権限の下に置いている範囲以外のことをするように命じた場合。その時、長上に従う義務はない」。

さて、教会においては、すべての権威は、一つの目的にために、キリストから来ています。「主が滅ぼすためではなく建てるために私に賜うた権威」(コリント後書13章10節)、「聖徒たち、聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え」(エフェゾ4章12節)るためです。これは、聖パウロの書簡の中で16回出てくるテーマです。さて、この建てること(edification)がどのようにもたらされるかは、それぞれの教皇の恣意的な気まぐれによるものではありません。それは、信仰によって建てること(エフェゾ4章29節)と愛によって建てること(エフェゾ4章16節)です。ブニーニがその通達で行っていたように、また現在、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)が行っているように、聖伝のラテン語ミサを徹底的に破壊しようとする努力は、確かに「建てるため」ではなく、むしろ「滅ぼすため」であり、したがってそれは、いかに高いものであっても、キリストによって与えられた教会の権威の目的そのものに反しています。したがって、それは何の拘束力も持ちません。

聖ピオ十世会で行っていることは、何世紀にもわたって、すべての良き司祭が行うことを許されてきただけでなく、要求されてきたことです。教皇ベネディクト十六世の言葉で言えば、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません」。

司祭がそれを行うことは、たとえ司教から禁じられているとしても、不従順ではありません。なぜなら、司教の権威が与えられているのは「滅ぼすためではな」いからです。司教が司祭を育成し、司祭を叙階することによって、ミサの将来に備えることは、たとえ教皇に禁じられているとしても(他にそれを行う司教がいない場合)、不従順ではありません。なぜなら、教皇の権威でさえ、キリストから来る目的があり、その目的は「滅ぼすためではなく建てるために」であるからです。

【参考】教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙-1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって(カトリック中央協議会)

ルフェーブル大司教は、しばしばこう述べていました。「誰も私たちのカトリック信仰を弱めるよう命じることはできません!」。そうすることは、教会の権威の目的そのものに真っ向から反することになります。カトリックの信仰は、最新の公会議の神学者たちが気まぐれに作り上げて変更できるものではなく、むしろキリストと使徒たちに由来し、何世紀にもわたって私たちに伝えられてきたもの、つまりカトリックの聖伝なのです。

9.権威の所有と権威の行使

従順は、不足を避け、かつ過剰を避けるという同じ徳に属するものです。それゆえ、聖ピオ十世会の廃止に対するルフェーブル大司教の抵抗もまた、真の従順の徳の行為なのです。

特定の命令を遵守することは、権威の行使に応えるものです。もしある命令が悪であるならば、そのような命令は、権威の適切な行使というよりも権威の濫用であり、権威そのものは善のままです。それゆえ、そのような命令に抵抗することは、権威そのものへの服従、すなわち、権威から来るあらゆる正当な命令に従う意志の用意があることと共存することは、十分に可能です。

命令に従う場合であっても、自分の意志に従う者(それが自分を喜ばせるがゆえに)と、より高い権威への従順、究極的には天主への従順から、権威の濫用に抵抗しつつ、あらゆる正当な命令に従う用意のある者との間には、大きな違いがあります。前者は、従ったものの本当は従順ではなく、後者は、従わなかったものの本当は従順なのです。近代主義者たちがその変更に従ったのは、従順からではなく、この変更が自分たちの望むものであったからこそです。彼らは、本当は従順ではなかったのです。しかし、これらの変更に抵抗したルフェーブル大司教は、天主というより高い権威への従順から、権威の濫用に抵抗するという従順の徳を、まさに実践していたのです。大司教はこう言っていました。「サタンの熟練の技は、従順の名の下に、多くの人々を聖伝への不従順へと至らせることでした」。

10.教会との一致に必要なものとは何か?

すべてのカトリック神学者は、教皇の特定の命令に抵抗しても(たとえ正当な命令であっても)、教会との交わりを断ち切ることはないと認めています。聖トマスは、離教についての非常に正確な定義を与えています。「離教者とは、教皇に服従すること、かつ、教皇の至高性を認める教会の成員との交わりを保持することを拒否する者である」。服従を拒否することは、教皇の命令する権利を認めないことを意味します。ルフェーブル大司教は、そのこと【教皇の命令する権利を認めないこと】を完全に拒否しました。大司教は、実践上の命令(例えば、神学校を閉鎖すること)には疑問を呈しましたが、教皇の命令する権利には決して疑問を呈しませんでした。大司教は、権威の所有ではなく、権威の行使に疑問を呈し、いかなる正当な命令にも従うという意志の用意を常に維持していました。ピオ十二世の下でだけでなく、パウロ六世やヨハネ・パウロ二世の下でさえも、大司教の理想は「教皇に仕える」ことでした。ですから、1974年の宣言の中で、大司教はこう言っているのです。

「このため、私たちは、いかなる反抗心も皮肉も恨みもなく、時を超えた教導権を私たちの指針として、司祭を育成するという仕事を追求するのです。私たちは、聖なるカトリック教会、教皇、そして後世に対して、これ以上の奉仕をすることはできないと確信しています」。

これは離教者の言葉ではありません! 大司教の立場を特別なものにしているのは、第二バチカン公会議と公会議後の改革による教会の危機の中で、ローマ教皇庁と教皇自身によって推し進められている新しい方向性が存在する、ということです。それは、神学、典礼、カトリック以外の宗教との関係、この世との関係(キリストの社会的王権の否定。コロンビアなどの国に対して、カトリック国であるとする憲法の第一条を取り去るように求めたのは、教皇パウロ六世自身でした!)において、聖伝に反する方向性です。その新しい方向性は、公会議終了時の教皇パウロ六世の演説の中に、非常に明確に表れています。

「恐ろしい反聖職者的な実態を明らかにした世俗的な人間中心主義は、ある意味で公会議に反抗しています。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの公会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」【参考】パウロ六世の言葉

パウロ六世が本当に善きサマリア人の精神を持っていたならば、現代人を礼拝するのではなく、治療したはずです。キリストの御血(善きサマリア人のぶどう酒が意味するもの)を、キリストのいけにえの御血を、人間の傷に注いで治療し、回心を促して教会に導いたはずですが、そうはしませんでした。その演説には、十字架については一言もないのです。

それゆえ、教会の聖伝の活動を継続して行うことで、ルフェーブル大司教は、いくつかの個々の濫用的な命令だけでなく、この新しい方向性全体に抵抗するようになりました。すると、ルフェーブル大司教の前に壁が立ちはだかりました。大司教の反論は――【新しく押し付けられている】新奇なものについては無視して――「従順」の名のもとに一蹴されたのです。ラッツィンガー枢機卿の要請で、大司教はローマに一セットの「疑問点」(Dubia)を提出しました。1987年、大司教は回答を受け取りましたが、それは基本的に全く回答になっておらず、ただ一つの主張つまり「従順」があっただけでした。ルフェーブル大司教の回答は単純で、教皇の権力に関する第一バチカン公会議の教義憲章を思い起こさせることでした。「聖霊がペトロの後継者に約束したのは、聖霊の啓示によって新しい教義を知らせるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を信心深く守り、忠実に説明するためである」。この聖霊の援助は、教皇の一つ一つの行為が信仰の遺産の忠実な説明であることを保証するという「自動的」なものではなく、教皇の協力を必要とします。ですから、教皇が新奇なものを推進するとき、それは聖霊の働きではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世でさえ、第二バチカン公会議には新奇なものがあると認めているのです。

第二バチカン公会議と公会議後の改革がいかに新しいものであるかを、単に知らない人々がいます。これらの新奇なものは「連続性の中に」あって「連続性の解釈法」を推進する、と主張する人々もいます。しかし、真実は、時には直接的な矛盾があるものの、ほとんどの場合、完全な方向転換なのです。それは、「人間の方への」方向の転換、教皇パウロ六世自身が言ったように、すべてが人間中心となっており、このことは、新しい典礼の中に明白に現れています。

カトリックの聖伝への忠実さから、これらの新奇なものを拒絶することは、教会の交わりからの断絶でないのは確実です! もし断絶があるとすれば、それは方向を転換した人々の側、キリストの神秘体の中の霊魂たちに非常に大きな損害を与える新奇なものを導入した人々の側です。分裂は、忠実さの、全時代の信仰・全時代の典礼・諸聖人の模範への忠実さの結果ではありません。

11.教会の一致とは何か?

教会との交わりを、教皇への従順に矮小化する傾向のある人々がいます。これは確実に、カトリックの教理からかけ離れています。

聖トマスは神学大全の単一の問題で教会について語り、教会のかしらとしてのキリストを語っています(第III部 第8問題 第3項目 異論第2への回答を参照)。彼の教えによれば、教会の一致とは、キリストとの一致、キリストの神秘体の一致であり、また、それ【教会の一致】は成聖の聖寵(ここ地上では信仰、希望、愛、そして天国では栄光)によるものです。しかし、別の教会博士の聖ロベルト・ベラルミーノは、教会に関する代表作の中で、教会をこう定義しています。

「われわれの定義はこうである。二つの教会ではなく、唯一の教会があり、この唯一にして真の教会とは、同じキリスト教の信仰を告白し、同じ秘跡の交わりによって結びついた人間の集まりであり、正当な牧者たちの統治、特に地上でのキリストの唯一の代理人であるローマ教皇の統治の下にあるものである。したがって、この定義には三つの部分がある。つまり、真の信仰の告白、秘跡の交わり、正当な牧者であるローマ教皇への服従である」。

これら二人の聖人にして博士は、互いに対立するどころか、互いに補完し合っています。人間は肉体と霊魂から成り立っているため、内的な一致と外的な一致があります。それは、霊魂を一致させる肉体ではなく、肉体を一致させる霊魂であり、そのため、二つのレベルがあります。教会の内的な一致は、間違いなく、さらに重要であり、もう一つの一致の原因です。この内的な一致において、霊魂の生命そのものがあり、「愛に根ざし、愛に基を置くあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれ」(エフェゾ3章17節)、「私は生きているが、…私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている」」(ガラツィア2章20節)。天主への愛が私たちの隣人の上に溢れるように、キリストとの一致の絆は、キリストの神秘体のすべての成員に及ぶのです。

内的な信仰の徳が、いかに信仰の告白につながるかを容易に理解することができます。「『私は信じた。だから話した』と書き記されているとおり、私たちも同じ信仰の精神をもって信じ、そして話している」(コリント後書4章13節)。

内的な希望の徳は、祈り(つまり礼拝)につながり、また、天国へ行くための助けを得るための秘跡を受けること、つまり秘跡の交わりにつながります。

愛の徳は、従順につながります。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である」(ヨハネ14章21節)。キリストへの従順は、天主の民を支配するためにキリストによって任命された人々への従順につながります。しかし、その従順は、聖ヨハネが書いているように、常に聖伝への忠実さの中にあります。「愛は掟に従って歩むことにある。あなたたちは初めから聞いたとおり、掟に従って歩まねばならぬ」(ヨハネ第二書1章6節)。「あなたたちは、初めから聞いたことにとどまれ。初めから聞いたことにとどまるなら、あなたたちは、御父と御子の中にとどまる」(ヨハネ第一書2章24節)。

信仰の優先順位に注目することは重要です。信仰は、まさに第一の内的な絆であり、唯一の真の信仰の表明は、第一の外的な絆です。教会の一致の中心としての教皇の重要性は、私たちの主イエズス・キリストが教皇に、兄弟たちを信仰において固める義務を与えたという、まさにその事実に由来します。信仰を二次的なものとして脇に置くことはできません。

したがって、三重の内的な絆は三重の外的な絆に対応し、内的な絆は外的な絆の源であり霊魂です。三つの内的な絆に三つの外的な絆を加えれば、教会の一致には六つの要素があることになります。この六つの要素のうち、最も重要なもの、それがなければ救いがないものは、愛なのです。天主への超自然の愛は天主への超自然の知識の後に来るため、信仰のない愛はあり得ませんが、愛のない信仰は死んでおり、救いのためには不十分です。また、愛のない外的な一致も、何の価値もありません(コリント前書13章1-3節)。「愛は完徳のかなめ【絆】である」(コロサイ3章14節)。

さて、いくつか要素が欠如していたらどうなるのでしょうか? 教会(凱旋の教会ではなく戦闘の教会)の内には義人と罪人が混在しているというのが(ドナトゥス派に対抗する)信仰の教義です。したがって、教会との絆を(完全に)断ち切ることなく、愛が欠如することさえあります。絆は確かに傷つき、不完全ですが、それでも残っています。また、水の洗礼がない場合、血の洗礼や望みの洗礼によって救われることがあるというのが教会の一致した教えであり、それらは秘跡でないにもかかわらず、教会との真の絆を生み出します(殉教者は超自然の愛の行いと信仰告白を所有しています。求道者も愛の中におり、洗礼を待つという教会への従順の行いを所有しています)。

聖ロベルト・ベラルミーノ自身、第三の要素である正当な牧者への服従が欠落している例を挙げています。

もしも受けた破門が不当であったなら、破門された人が、洗礼、信仰告白、正当な高位聖職者への服従を保持し、その結果、天主の友であり得ます、また、破門された者が赦免を受ける前に悔悛し、上記の三つ(洗礼、信仰告白、従順)を保持し直すこともあり、そうすれば、まだ破門されたままでも、教会にいることになります。このような人は、霊魂によって、すなわち欲求によって、教会にいるのであって――これが救いのためには十分である――、まだ体によって、つまり外的な交わりによって、教会にいる――これが固有の意味で言えば地上の目に見える教会の成員とする――のではない、と私は答えます。

実際、「正当な牧者への服従」には二つの側面があると考えるべきでしょう。それは、目下による長上の認識と長上による目下の認識です。前者は絶対に必要です。実際、教皇を最高位と認めることを拒否することは、聖トマスが説明しているように、まさに離教の罪です。しかし、後者は、目下ではなく、長上の過失によって欠けることがあります。典型的な例は、コーション司教による聖ジャンヌ・ダルクの破門です。目に見える形では、彼女は【神秘体の】外にいましたが、実際にはキリストの神秘体である教会と非常によく一致していたのです。

聖アウグスティヌスは「真の宗教について」(De vera religione)6.11の中でこう書いています。

「時には、天主の御摂理は、良き人々であっても、肉欲的な人々の側からの乱れや不和の発生によって、キリスト教共同体から追放されることを許すであろう。彼らが教会の平和のためにこのような侮辱や傷害を我慢するという無尽蔵の忍耐を示し、離教や異端という方法で新奇なことを企てないならば、彼らは私たちが天主に仕えるべき心からの忠誠と本物の愛を私たち全員に教えてくれるであろう。したがって、このような人々の意図は、嵐が鎮まれば、自分の帰るべき道を見つけるだろうことは確実である。しかし、もし、それが許されないならば(同じ嵐が続いているので、あるいは、彼らが戻ってきたらさらに野蛮な嵐が始まったりするので)、彼らは、扇動や問題を起こした人々の利益さえも喜んで考え続けるだろうし、自分自身の分離した団体集会を立ち上げるなどはせず、彼らが知っているカトリック教会で宣言されている同じ信仰を自分たちの証言によって擁護し、支援するのを続けるであろう。『隠れたことを見られる父』(マテオ6章4節)は、隠れてこれらの人々に冠を授けられるであろう。このような人々はめったに見られないが、それでも、その例は欠けることはない。実際、あなたたちが想像する以上にたくさんいる。このように、天主の御摂理は、霊魂を癒やすために、霊的な人々を確立するために、あらゆる種類の男女とその模範を利用する」。

もし彼らが「御父によって冠を授けられる」とすれば、それは彼らがキリストの神秘体の中にいるからです(そうでなければ、「教会の外に救いなし」[extra Ecclesiam nulla salus]を否定することになります)。彼らは内なる絆を持ち、第三の半分を除く外的な絆を持っています。彼らは、その長上によって認可を(不当に)拒否されているのです。

聖ピオ十世会については、私たちには、少なくとも最初の五つと、目下の長上への服従があることは明らかです。長上による目下の認可については、聖ピオ十世会全体について明確な宣言はありません。1988年の罰は、もしそれが有効ならば、せいぜい聖別した司教2人と聖別された司教4人に適用されるだけです。なぜなら、「不利なものは厳格に適用されるべし」(odibilia sunt restringenda)――不利な要素は厳格に解釈すべきであり、すべての人に適用されるものではないからです! 私が、もしそれが有効であったならと言うのは、教会法自体が、必要な場合、少なくとも主観的な場合には、自動的に罰せられることはないと言っているからです。ヨハネ・パウロ二世は特別な罰則を課したわけではなく、単に教会法が適用されると言っただけであるため、教会法を適用するなら罰則はないのです!

結論。聖ピオ十世会はカトリック教会の中にあります。私たちにとって欠如しているのは、正規の教会法上の立場ですが、その欠如は私たちの責任ではありません(私たちは確実に、聖ピオ十世会の元の見かけ上の廃止を決して望んでいませんでした)。私たちはその立場が修正されることを望んでいますが、信仰を犠牲にはしません。正規の教会法上の立場が欠如していることは、私たちを教会の外に追いやるものではありません。なぜなら、その立場の欠如は、権威を認めることの拒否を意味するわけではないからです。法は秩序を定め、秩序は善です。教会の使命は秩序あるものであるべきであり、それゆえ、それは教会法によって支配されているのです。今日、近代主義の嵐のために無秩序がありますが、それは教会と聖ピオ十世会の絆を壊すものではありません。

12.さらなる反論:要求される「教会法上の派遣(missio canonica)」についてはどうか?

私たちは皆、あらゆるレベルの聖職者において、教会の仕事が秩序正しく行われるように、教会法上の派遣(missio canonica)が必要であることを認めています。しかし、そのような missio (派遣・使命) にはさまざまな種類があります。

例えば、司教が助任司祭に告解を聴くことや特定の司祭としての仕事のために与える「ab homine 人からの」派遣(使命)があります。

「ab officio 職務からの」という派遣(使命)があります。例えば、司祭を主任司祭に任命することは、主任司祭のすべての義務とそれに必要な権限を含んでいます。これは、典型的な司教区の司教の使命です。ある司教区に司教を任命することで、教皇はその教区の羊たちの世話をする使命と、それに伴うすべての権限を与えます。教皇は、これらの権限の一部を制限する権利(例えば、留保された罪)を持っていますが、教区司教の職務と義務の本質そのものは教皇がつくったものではなく、むしろこれらの義務(完全な信仰を教える責任、聖伝に忠実な礼拝と秘跡を与えることなど)を確立したのは、私たちの主なのです。教皇は、教会の基本構造(constitution)を変更する権利を持ってはいません。

しかし、「a iure 法によって」の派遣(使命)と呼べるような場合も存在します。教会法が明確に想定しているのは、通常の裁治権または派遣(使命)を持たない司祭が、信者の何らかの必要性に直面していて、霊魂の救いが最高の法であるがために教会法が司祭に派遣(使命)を与えるという、ある種の場合です。なぜそれが可能なのでしょうか? (1)このような場合、裁治権は必要ないのでしょうか? あるいは、(2)法そのものが裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(3)教皇が教会法を認可することで裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(4)キリストがすべての仲介者を迂回して、御自ら裁治権を与えられるのでしょうか? 教会法自体は、このことがどのように起こるかについての問題を解決していませんが、間違いなく、裁治権が与えられる(これは、「ad casum その個々の特別な場合のため」という或る教会法上の派遣を意味します)と述べています。また、この裁治権または派遣(使命)は、教皇のパーソナルな行為なしに与えられることも明らかです。これはある人々が主張する、天主の法による規定として、教会法上の派遣のためには教皇の明確な意志が要求される、との説を論駁するものです。

この説明の中で、最高のものは第三のものと思われます。つまり、教会法を認可することにより、また、教皇として存在するという意志そのものにより、従って、それほど高められた身分に応じた義務を果たすという意志により、教皇は、そのような場合のための教会法上の派遣(missio canonica)と裁治権を与える、という説明です。教皇は、それぞれの場合を知る必要はなく、特定の場合に同意さえしないかもしれませんが、キリストの群れの善のために世話をするという義務は、霊魂の救いのために必要なものを与えるよう教皇に義務づけているため、教皇は、そのような教会法上の派遣を与えることを望んでいるとみなすことができます。例えば、ヴォイティワ枢機卿【後のヨハネ・パウロ二世】は、カザローリ枢機卿とチェコの共産主義政府との間の【チェコ人を司祭に叙階しないという】合意にもかかわらず、チェコの司祭たちを叙階したことが記録されています。このような場合、たとえ教皇パウロ六世が、これらの叙階を認可しなかったとしても、ヴォイティワ枢機卿は霊魂たちのために行動し、そのような教会法上の派遣を帯びていたのです。しかし、それは法の文言の中にあるのではなく、法の原理から出て来るものです。

実際、聖トマス・アクィナスは、賢明の徳には八つの「不可欠な部分」があると説明しています。そのうちの一つは「intellectus――知性」、つまり、行動を正しく導くために必要とする適切な原理を理解することです。神学校で、ルフェーブル大司教がこの原理を説明していたのを私は覚えています。大司教は、教会法の文言から、教会の法を導く原理を引き出し、何よりも霊魂の救い(salus animarum)が最高の法であると説明しました。

「あなたの言う状況は法の文言の中にはありません」と反論する人々もいます。しかし、教会の現在の状況は、公会議と公会議後の改革による新奇なものと新しい方針のために、新しい状況でもあります。教会の精神に忠実にとどまるためには、法の原理を考慮する必要があります。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。教会の精神が善きサマリア人を模範としているのは確実であり、それは傷ついた霊魂たちの命のためです。

《追記》教会法の通常の文言の外に、教会法上の派遣(法的身分)または裁治権が存在し得ることは、教皇フランシスコが聖ピオ十世会に告解の裁治権を与えたというまさにその事実によって、簡単に証明できます。これは、通常の教会法には当てはまらない方法です!

13.婚姻裁判所とは何か?

聖ピオ十世会には、教会の裁判所はありません(教皇から委任された案件を除く)。婚姻裁判所とは、厳密には通常の裁判所ではありません。裁判所においては、裁判官は当事者に罰則やその他の義務を課す権限を持っていますが、そのような権限を持つためには、当事者に対する正規の権限を持つ必要性があるからです。しかし、結婚の裁判所は、単に客観的な真実についての問題を判断するのであって、いかなる罰則も新たな義務も課すことはありません。結婚の裁判所は、ある特定の婚姻の儀式が有効な婚姻だったか否かを判断するだけです。ここで、権威が判断の真実性【判断が正しいか否か】に影響を及ぼすのではなく、誰にそのような判断を下す責任があるかだけです。

聖ピオ十世会の婚姻裁判所をもたらしたものは、公会議後に婚姻無効の数が大幅に増加したことです。そのため、婚姻無効の判決を「カトリック的離婚」と呼ぶ人もいるほどでした。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか? これらの婚姻無効の多くは、「あるべき慎重さに欠けていたため」という事由で許可されました。

教会法の条文の第1095条第2項にはこう書かれています。「(以下に掲げる者は、婚姻契約を締結する能力を有しない。)相互に授受さるべき婚姻上の本質的権利及び義務に関する判断力に重大な欠陥を有する者」。

しかし、この曖昧な「判断力に重大な欠陥」を広く適用すると、結婚が軽率であった場合、しばしば無効と判断されることになります。裁判官の中には、普通の夫婦が何年も結婚生活を続けてもほとんど達成できないような成熟度を、結婚前に実質的に要求した者もいました。その結果、多くの信者が混乱しました。結婚が離婚に終わって、「婚姻の無効判断を受ければいいんだよ!」と言われた人々もいました。しかし、彼らの良心はこれを疑問に思いました。彼らは、結婚したとき、結婚したかったからこそ、必要だったことを本当にしたんだということを思い出したのです。婚姻無効となった後に聖伝を知った人々の中には、再婚が有効かどうか疑問に思う人もいました。婚姻無効を受けたとき、彼らの良心は、それほど明確ではなかったのです。

今、困難な状況が要求している犠牲を払うためには、例えば、合法的な配偶者に捨てられた場合、確固とした確証が必要であり、疑いやためらいは、これらの犠牲を払う勇気を失わせがちです。多くの信者が、このような婚姻無効の問題に関して、地元の聖職者を信頼できなかったことに気づき、私たちのところにやって来て、こう尋ねました。「私の結婚は有効だったのでしょうか?」「私の婚姻無効は有効だったのでしょうか?」「私の再婚は有効なのでしょうか?」と。

そのような問題は、事実の問題にすぎません。司祭は、この問題について個人的な意見を述べることができますが、そのような意見はあまり重みを持たず、真の良心の平和を得るために必要な確証を確立したり、一人でいなければならない場合に必要な犠牲を払ったりするのに十分なものではありません。実際、常に、言いなるになる司祭を探すこともできます…常に見つけることも可能でしょう――しかし、その場合、良心は安心してはいられないでしょう。

通常の状況であれば、これは婚姻裁判所の目的そのものです。司教が裁判官を選ぶために取るべき、また裁判所が法の適切な予防措置に従うことを確実にすべき努力が、判決が信頼できるものであるという保証を提供します。しかし、先に説明したように、公会議後の多くの裁判官の新しい態度は、このような婚姻裁判所をもはや信頼できないものにしてしまいました。

多くの婚姻裁判所に信頼性がないことによって深く影響を受けた信者の必要を満たすことは、信者に対するいかなる権威をも主張することではなく、むしろ、善きサマリア人のように、傷ついた霊魂の世話をすることです。良い裁判官を注意深く選び、教会が伝統的に要求する通常のプロセスを提供することによって、私たちは、信者が良心の平和と、時には(配偶者に捨てられたときなど)犠牲の人生を送る勇気を見いだすことができる信頼ある判決を提供することができるのです。

14.ルフェーブル大司教を異端と告発する人々がいる

この告発はあまりに信じがたいため、最後に残しました。その告発の理由は、1989年に定められた信仰告白を拒否することにより、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は異端者になっているというものです。

このような告発をする人々は、深刻な信仰の危機があることに気づいていないように思えます。この危機においては、あらゆる教義が、非常に多くの現代の神学者によって再解釈され、それによって、しばしばその意味が完全に無となっています。たとえば、原罪の教義が、しばしば彼らの再解釈の標的となります。実際、彼らは進化論を信じているため、最初の男アダムと最初の女エワが存在したとは信じていません。彼らが原罪をどのように考えて解釈し直すのか、それは皆さんがお考えください。言うまでもなく、それは、聖パウロが教えたこと、そして聖パウロ以後のすべてのカトリックの聖伝とはほとんど関係ありません。聖伝は、「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだように(一人の人によって救いが行われた)」(ローマ5章12節)。

このような信仰の危機は、第二バチカン公会議自体の中に見られる新奇なものと、公会議が取った新しい方向性に部分的に起因しているものです。ところでこの危機を考慮すると、新しい信仰告白の危険性は、その最後の段落の中にあります。明らかなことですが、信経を受け入れることと、不可謬の(ex-cathedra)の教導権の明確な教えと、通常および普遍的な教導権の明確な教えを扱う最初の二つのパラグラフを受け入れることには、何の問題もありません。しかし、この第三のパラグラフは、私たちが受け入れている普遍的で通常の教導権による非定義的な教理と、私たちが受け入れることのできない第二バチカン公会議による、公会議後の司教たちによる新奇なものを、「真正な」教導権という名前の下で一緒にしているのです。第三パラグラフは、このような教えを支配すべき基準、すなわち、聖伝との適合性をまったく考慮していません。

定義された教会の教導権は絶対的な同意を必要とし、定義されていない教導権は絶対的な同意を必要としません。それ【定義されていない教導権】が要求するのは宗教的な同意であり、これは絶対的ではありません。つまり、教えられた教義が新しく、過去の変わらない教理と対立する場合、同意を保留しなければならないという可能性を取り除くことはありません。

この新しい信仰告白は、第二バチカン公会議の新奇性という事実を基本的に無視しており、その新奇性があたかも完全にカトリック的であるかのように、すべての人にそれをのみ込ませようと望んでいます。

私たちがこの第三パラグラフの不正確さを拒否するのは、不変のカトリック信仰に対する真の忠実さからです。

15.最後のポイント:ルフェーブル大司教の行動を正当化するのに奇跡は必要か?

異論はこう言います。「役務者が特別な使命を持っていることを証明するために、教会は常に、その役務者に奇跡を起こすように要求してきた」。これは、例えばルルドやファチマにも当てはまります。ベルナデッタや3人の子どもたちは、幻視とメッセージを得ていると主張しました。教会当局は、正しく奇跡を求め、奇跡は両方のケースで現れ、その結果、幻視とメッセージの両方を本物だと認証しました。

しかし、これは普遍的な原理ではありません。例えば、確実に特別な使命を持っていた聖ジャンヌ・ダルクが、王子(dauphin)のもとに行ってオルレアンのための軍隊の派遣を求めたとき、王子は、彼女をポワチエ大学の神学博士たちに調べさせただけでした。その結果、彼女の信仰と道徳が健全であることが分かりました。博士たちが「天主が勝利を与えようとお望みであれば、兵士は必要ない」と問うたとき、彼女はただこう答えました。「兵士は戦い、天主が勝利を与え給う」と。歴史の流れを変えたオルレアンの勝利は奇跡ではなく、天主は通常の二次的な原因【兵士】を迂回されることなく、むしろ望ましい結果になるようにそれを動かされたのです。

しかし、ルフェーブル大司教の場合は全く違います。大司教には特別な使命はありませんでした。大司教は【エコンの】神学校に、自分に対して好意的だったり反対だったりして接触してきていた幻視者たちに引っかからなかった理由を説明してくれました。大司教の説明はこうです。「私たちの信仰は、天主である私たちの主イエズス・キリストの証言に基づいており、その教えは、カトリックの聖伝を通して忠実に伝えられることによって私たちに届くものです。私たちが天主と直接つながる必要があるとしてしまうのは、信仰についての間違った概念です。そうすることは、教会を迂回することになってしまい、結果として、私たちの主が確立されたことに反することになります。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの賜物、教理、秘跡を受けるのは、教会において、何世紀にもわたる忠実な伝達を通じてなのです」と。

このように、大司教の摂理的使命は、まさに聖伝に忠実であるという使命でしたから、大司教がそれを奇跡で迂回しなかったのは適切でした(奇跡による迂回であったのならば。それは私たちにとってあまりにも簡単なことだったでしょう…)。


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