聖書の『詩編』には、たくさんの詩が収載されているが、そのうちの多くは、自分たちを迫害する敵への憎しみに溢れている。
わが身を虐げる相手を敵とみなし、神に向かって彼らの排除を願う。そんな内容が目立ち、非キリスト者である私としては読んでいてげんなりした。
自分と考えの違う相手を憎む心情は彼らにとっては、もちろん真実だと思う。
だけど外野の人間としては、そういった一方的な視点には辟易するほかない。
そう感じるのは、そういった心情の根底に自分は正しく、神の怒りに小さく縮こまり絶対帰依を表明していることこそが正義だという、狂信的な確信がほの見えるからだ。
その選民思想というか、ルサンチマンの感覚が私には合わない。
個人的には、相手を敵とみなす内容の詩や、神への絶対的な服従を表明する詩よりも、もっと素朴に神を讃える内容の詩が好ましく感じた。
有名な23章は特に良い。
まず内容が穏やかなのがすばらしく、神といることを単純に喜んでいる様が麗しく心に届く。
他にも46章、67章、117章も素直な心で神をあがめているのが伝わってくる。その単純な感じが印象深い。
また22章や90章は神をあがめすぎて、マゾっぽく見える点を少し面白く感じた。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』
『民数記』
『申命記』
『ヨシュア記』
『士師記』
『ルツ記』
『サムエル記』
『列王記』
『歴代誌』
『エズラ記』
『ネヘミヤ記』
『エステル記』
『ヨブ記』
『詩編』
わが身を虐げる相手を敵とみなし、神に向かって彼らの排除を願う。そんな内容が目立ち、非キリスト者である私としては読んでいてげんなりした。
自分と考えの違う相手を憎む心情は彼らにとっては、もちろん真実だと思う。
だけど外野の人間としては、そういった一方的な視点には辟易するほかない。
そう感じるのは、そういった心情の根底に自分は正しく、神の怒りに小さく縮こまり絶対帰依を表明していることこそが正義だという、狂信的な確信がほの見えるからだ。
その選民思想というか、ルサンチマンの感覚が私には合わない。
個人的には、相手を敵とみなす内容の詩や、神への絶対的な服従を表明する詩よりも、もっと素朴に神を讃える内容の詩が好ましく感じた。
有名な23章は特に良い。
まず内容が穏やかなのがすばらしく、神といることを単純に喜んでいる様が麗しく心に届く。
他にも46章、67章、117章も素直な心で神をあがめているのが伝わってくる。その単純な感じが印象深い。
また22章や90章は神をあがめすぎて、マゾっぽく見える点を少し面白く感じた。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』
『民数記』
『申命記』
『ヨシュア記』
『士師記』
『ルツ記』
『サムエル記』
『列王記』
『歴代誌』
『エズラ記』
『ネヘミヤ記』
『エステル記』
『ヨブ記』
『詩編』