渡辺淳一の原作を森田芳光監督によって映像化した「失楽園」(1997年/R14指定)を視聴。キャストは黒木瞳、役所広司、寺尾聡、柴俊夫らで、内容的には現在で言うところのダブル不倫。ああ、確かに、その昔、世の中的には「失楽園ブーム」なんてものがあったのかな。

黒木瞳さんが、その魅力を炸裂させた作品で、裸で抱き合うシーンにキスシーン、バストトップも顕わに揉みしだかれるシーン等もありました。

しかし、そちらの話ではありませんで、この不倫の果てに、役所広司演じる久木(くき)と、黒木瞳演じる凛子(りんこ)とが最終的に行き着いたのが心中であった――という事について。

序盤でも伏線があり、雑誌の編集者をしているという設定の久木は、昭和史を担当しており、そこで「阿部定」という単語を挙げている。そして、いわゆる話題になったのはラブシーンであったと思われますが、そこで交わされている会話というものは「あなたの体が好き。あなたの心が好き」であり、股間に手を当てながら「君のここが好き」という感じの、つまり、真正面から性を肯定していた事でしょうか。そして、なるほど、ネタバレにもなってしまいますが、もう古い作品なので構わんのでしょう、あの心中に到る。徹底的な性の肯定。

印象的なシーンは、黒木瞳演じる凛子が実母から

「私はあんたを、そんな淫らな子に育ては覚えはないよっ」

とビンタを食らうのですが、凛子は睨み返しながら

「私が淫らだというなら、世の中の女は全員、淫らだわっ!」

というシーンでしょうか。

設定では、凛子は38歳、久木は50歳である。38歳の凛子には柴俊夫演じる医者の夫がある。しかし、凛子は久木との不倫に溺れている。これは何ら飾る事もない肉体関係を前提とした不倫関係であり、そこで久木とのカラダと久木の心に溺れていると隠さない。そんな態度を「淫ら」と実母から叱責されての反論のシーンであった。という事は、逆説的に【淫ら】とは世間体をわきまえるべきという何某かの精神規範であり、それが理解できずに愛欲に溺れたから、母は娘を「淫らな子に育てた覚えはない」と怒ったのでしょう。そう叱責された娘は「私が淫らというなら、世の女は全員、淫らだわ」と反論しているが、この反論には「私のみが淫らなのではない」という事を主張している。更に、その反論を掘り下げれば、当の凛子は〈真っ直ぐに愛欲に溺れている〉のであり、〈真っ直ぐに溺れているのだから、これは純愛であり、淫らなどと言われるおぼえはない〉という主張になっているのでしょう。

実際に久木と凛子とのセリフのやりとりでも、自分たちの不倫によって周囲に迷惑が及んでいる事を気に病もうとしながらも、それを押し返すシーンがありました。それは「もう気持ちが冷めているのに、冷めていない事にして結婚生活を続けるなんて、それこそ、相手に失礼だわ」という主旨のセリフであり、そのセリフに続けて、よりホンネに近いであろう「年齢的にも私には、これが最後の恋だわ」的なセリフによって、その不倫の恋路を突っ走ってゆく。

そして、窓の外に雪が降っている温泉宿、その一室で、久木と凛子とは、結ばれたまま死ねるよう、予め計画し、性器的結合の状態のままに死後硬直し、その心中を遂げる。

これは序盤に「阿部定」という名前が挙げられていた事が伏線になっていたと気付かされましたが、これが、実は特異とも言われる日本的純愛心中の形を踏襲している気がしました。どういう訳か日本では、この男女による愛の最終形としての心中を悲しい美談としてきたところがある。その事を、来世で結ばれようとする、すなわち、来世もある、生まれ変わりを信じているから、このような美意識になったのだろうと考えていたのですが、そう簡単ではなさそうですかね。来世を信じている云々はそんなに重要ではないかも知れない。むしろ、その鍵は「阿部定」事件が握っている。

黒木瞳さんは、阿部定の一代記を描いた大林宣彦監督作品「SADA」で、堂々、阿部定を演じている。そして阿部定事件をモチーフにした映画といえばハードコアポルノ扱いの大島渚監督作品「愛のコリーダ」もある。否応なしに日本文化が有していた男女間の愛の最終形として、それがあり、いわば純愛心中なのでしょうねぇ。

萩原健一を主演にした神代辰巳監督作品に「もどり川」という文芸作品がありましたが、こちらは心中するつもりであるが、生き残ってしまう男が主人公で、二度、三度と心中未遂事件を起こし、自分だけが生き残る。つまり、こちらは裏切りを描いた。心中未遂事件を起こした事で、新聞などに取り上げられるが、そこに売名の余地がある。男は故意か故意ではないのか分からぬままに、二度三度と心中未遂事件を繰り返し、その都度、自分だけが生き残り、その悲劇的経験を売り物にして生きて行く。

「真っ直ぐであるからこそ」、つまり、「愛欲は純愛であり、その純愛を貫徹させようとする」からこそ、その男女は一緒に死ぬ、一緒に死のうという具合の選択をしている。一緒に死ぬという選択を出来るという事は、最早、そこには一ミリも裏切りの余地は入り込めない。永久なる結び、その恥じる必要性なんてない真っ直ぐな愛欲の貫徹が、この「失楽園」という原作の衝撃的なラストシーンだったのでしょう。



翻って恋仲の人たちの間で「一緒に死んでくれ」とか「一緒に死んでほしい」と言われて、どんな風に対応できるでしょう? まぁ、常識的な反応をしてしまうものでしょう。「あなたの事は好きだが、死ぬなんておかしい」とか「死ぬなんてダメだ。なんとか生き抜くべきである」と説得しようとか、言い宥めようとするのが常識的反応になるのかな。

しかし、よくよく、この問題というのを考えてみると、実は、日本的純愛心中は究極まで行き着いていたという事のような気がしないでもない。そもそも、理性によって恋愛をしているというよりも、理性が及ばぬ領域に性欲・愛欲があり、それこそ、真っ直ぐに溺れて行った場合、理性は取るに足らない問題になっていくでしょう。

これは中々に深い問題であるよなって思う。仮の話として、仮に、黒木瞳さんのような美女から、もしくは三浦春馬さん的なケチのつけようがない美男から「一緒に死んで」と頼まれてたとして、どうでしょう? さすがに簡単に「わかりました。一緒に死にましょう」とか「はい、喜んでお引き受けします!」とはならない気がしませんかね? 結局のところ、良識とか理性に捕らわれて生きているから、どこかに理性が残ってしまうんでしょう。

また、その話から必然的に派生するものとして「君は死ぬな。僕が死ねばそれで済む」とか「あなたは生きて。私が死ぬから」という、自己犠牲型の話とも考えられますね。自分が犠牲になって相手を生かすようにすべきだという考え方。しかし、これは明確に理性ですな。完全に理性的な結論でしょう。片方に犠牲を押し付けて、片方が生き残るという論法。しかし、そうした理知的な「生き別れ」を考えるよりも、「いっそ一緒に滅びるべし」と正直に情緒を爆発させる事をアッパレと評してきたのが、実は日本型純愛心中に隠されていた謎なんじゃないんだろか。抱き合ったまま死ぬ、結合したまま死ぬ、と。

勿論、軽々に死を選択するだなんてのは褒められた選択ではありませんね。常識的には考えないでいい話だ。しかし、究極的にどうなのかといえば、これはこういう問題になっていくと思う。そんなに理性的でもない人たちが展開させる「こうあるべき論」という「べき論」とは、実際には近視眼的な教条主義であり、有名人の不倫を本気になって怒れる人、また、そういう人が増えているという事は何か窮屈な世の中になってきているという事だと思いますけど。