タイトルを見て手を引っ込めてはいけない

 

 

『ケアの倫理とエンパワメント』小川公代著を読む。

 

タイトルを見てジュディス・バトラーの本みたいに難しかったら…。数ページ読み出して安堵した。するする読める。

 

冒頭部引用の引用。

「ケアはわたしたちの身近な活動であり、しかも、ケアを受けていない者はいないと断言できるほど人間存在にとって重要な活動であるにもかかわらず、なぜその活動とそれを担う者たちが、長い歴史の中で軽視、あるいは無視され、価値を貶められてきたのだろうか。(岡野八代「訳者まえがき」、『ケアするのは誰か?』)」

 

イヴァン・イリイチいうところの「シャドウ・ワーク」だよね。黒子、裏方、しかもタダ働き。ところが、

「家庭のケア労働はなくてはならない価値ある営為であるにもかかわらず、経済的、あるいは精神的に自立することのほうがより重視される傾向にある」

「家庭のケア労働」の担い手は女性。

「育児などのケア労働が女性の経済的自立を阻んでしまう営為であることはたしかである」

女性もそんなことは百も承知のこと。でも、代わりがいない。女性たちのボランティア精神にすがるしかないという現状。
女性の自立と自活は22世紀になってもある意味、旧態然のまま。

じゃあ、どうすればいい。「カイロス的時間」を持てるようにと。

「人間には、連続的進行の「クロノス的時間」とは別の「カイロス的時間」が流れている。それは、経験に基づいた想像世界が育まれる時間である」

ハンナ・アレントに倣えば、「クロノス的時間」は「労働」(生活費を稼ぐためのもの)で、「カイロス的時間」は「仕事」「活動」(やりがい、生きがいにつながるもの)に当たると思う。

 

カイロス的時間」を持った先達の一人、ヴァージニア・ウルフが考えるケアについてこう述べていると。

「ウルフが「人生のもろもろの事実―結婚したり、子どもを生んだり、埋葬したりすることは最も重要でない事柄である」(神谷美恵子「V.ウルフの病跡」と考えていた。―略―決して<ケア>の価値を否定していたからではない。ウルフの文学作品はむしろケア精神で貫かれている。子育て、看護、介護といった物理的な「ケア労働」の背後にある内面世界を包括しようとするのが、ウルフにとっての<ケア>なのである」

「物理的な「ケア労働」の背後にある内面世界を包括」したものを、シェアすることか。

「『自分ひとりの部屋』には、文学の傑作はかならず両性具有的な性質を備えていると書かれている。―略―男性であっても、女性的な視点を備えている文豪たちは「多孔的な自己」(porous self)のイメージをもっているからだ」

たとえば「シェイクスピアジョン・キーツ」などなど。

ノンセックス、ノンエイジ、変幻自在。やっぱり、ウルフの『オーランドー』読まねば。

「近代西洋社会において「正義」は白人男性中心的な価値観によって規定されてきたが、それによってさまざまな歪みが生じていることは否めない」

「マチズモ=男性優位主義」。作者はロールズの「正義論」を挙げているが。

 

ヴァージニア・ウルフの作品が最近注目を集めるようになったのも、共感に基づく多孔的な自己が描かれているということもあるだろう。個人の感じる喜怒哀楽や快/不快といった感情や痛みの感覚も、主観的ではなく、間主観的出来事として捉えられ、個の身体を越えて拡張していく意識や感情の運動が焦点化されてきている」

それで、このところ、ウルフを読んでいるのか。

「ウルフがもっとも強調するのは、共感や思うやりは女性だけが請け負う価値ではなく、男女両性による実践こそが負の「男らしさ」に縛られてきた文化を手放す方法論であるということ。すなわち、他人の感情に流されたり、家庭で子どもをケアする力を発揮したりする男性を「女々しい」と決めつけてきた性規範から解放される未来を示唆している。反対に、女性にも自立した生き方を選ぶ権利が与えられるような寛容な文化が醸成されれば、いずれもこの本質主義(エセンシャリズム)から脱却できるだろう。そう言いたかったに違いない」

凡庸だけど、シンパシーからエンパシーへ。そしてエンパワメントへ。ってことかな。

 

ヴァージニア・ウルフオスカー・ワイルド三島由紀夫平野啓一郎などの絶好のガイドブックとしても読める。

#ケアの倫理とエンパワメント #ヴァージニア・ウルフ 


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