味わったことのない液体が持つ殺人的な辛さというか刺激というか……。


頭の奥へと直接響く衝撃に吐き出したい衝動に駆られるが、今までに叩き込まれた巫女としての振る舞いがそれを許さず、目を白黒させて口を閉じたまま唸るような声を出し、男に訴える。



意図するところがわからぬわけではないだろうに、男は飄々と言ってのけた。悪戯っ子のような笑みを口許に穿いて。



「旨い酒だろ?孔雀ってんだ。」



その言葉から、酒に関する知識(飲んだのはこれが初めてだった)と共にこの男に対する若干の殺意を引っ張り出す。



涙目になりながらなんとか飲み込んで、恨めしげに睨みつけた。



「まぁそう睨むなって。俺と同じ名前の酒なんだからよ」



「同じ、名前……?」


まだ舌がひりひりしている。呂律が回っているのか、自分でも少し怪しく思う。



「いや、ちと違うな。紅雀」



同じ響きの名前なのに、そこにある決定的な違いを耳でなく心で理解する。



決して呼んではならない名前。



サラのように自分よりも強い者に名を呼ばれた悪魔は絶対的な力で支配される。



では、逆に力無い者がより強い者の名を呼ぶとどうなるのか。



何も知らずに名を呼び命を落とす輩も少なくないのだが、その事実をサラは知らない。


ただ、本能が危険信号を発したか、サラの星読の力が働いたかどちらかだ。








(続)


名を明かしたいと思う衝動とは裏腹に、名を明かせば恐ろしい事態になることを心で知っていたからだ。



悪魔の一族において、名は重大な意味を持つ。



それこそ、力有る者に名を呼ばれたその瞬間にも支配を許してしまうほど。


名にはそれだけの力が宿る。


名付けられた瞬間にそれを肌で知った。



「サ……サウラです」



それだけ告げて、まるでその質問から逃げるようにサラは目の前の料理と対峙しはじめる。



「サウラ……ね」



口の中で反芻する男の言葉は聞こえない振りをして、箸を皿につけて口に運ぶ。



しっかりと味がついているのにしつこくないし、油っこくもない。加えて歯ごたえもシャキシャキとしていて退屈しない。




「……美味しい……」




ただ野菜を炒めただけのものがこんなにも美味しいだなんて信じられない。



そう言うと、店主が鼻の下をこすり、男はまるで自分のことのように顔色を明るくした。



「だろォ?!お前よくわかってるじゃねぇか!」



背中を叩いて破顔する男は、おそらく25歳前後なのだろうが、それよりもずっと若く見えた。



けれどサラが噎せたのは顔全体で笑う男が邪気のない子供のようだったからではない。



背中を叩かれた拍子に野菜のカケラが喉の奥のヘンなところに入ってしまったからだ。



急に咳き込んだサラに男は「悪ィ悪ィ」と笑っていたが、収まるどころか、片手で口を覆い鳴咽まで起こしているサラが徐々に心配になってきたらしい。



叩いた場所に手を添えて、大丈夫か、と覗き込む。



激しい呼吸困難に見舞われたサラは空いている方の手でそんな彼をやんわりと拒絶した。



「だ……じょ…で…」



かろうじて「大丈夫です」とは聞き取れたものの、誰がどう見てもまったくもって大丈夫そうには見えない。



「馬ぁ鹿。女の口説き方っての教えてやろうか、クソガキ」


サウラに水を渡しながら店主がニヤリと笑いかけた。


「うるせーな。オッサンは力任せに突くだけだろーが」


「力任せに殴った奴が何言ってやがる」


「……」



言葉に詰まった男は店主に吐き捨てるように言った。



けれど、それは子供が拗ねた時のような声音で。



「酒、二つ」



店主はグラスに氷をいくつか入れて、酒瓶をドンと置いた。


それを男が無言で注いだ。



ようやく発作が収まったサラは水に手を延ばし、一口嚥下しようとし、再度口を押さえる。




「?!」




(続)


「おう、早かったなクソガキ」


「料理冷めさせたらキレるからだろ」



しっかりとサラの肩を抱きながら先ほどの店に戻ってきた男は、にやにやとした店主の言葉に眉根を寄せた。



「あっためなおすから座ってろ。味は落ちるが、文句言うんじゃねぇぞ」


店主がカウンターの上に置いてあった皿を取り上げて、フライパンに火を点けた。


サウラはまだ混乱していた。


何がどうなっているのか、理解不能だ。


予期していない場面で出会い、驚いて逃げて、けれど捕まえられた。


その後、たしかに言ったはずだ。



「貴方を殺すために来たのだ」と。



そのはずなのに、荒々しく唇を奪われた後、何故だかしっかり手を引かれて呑気に昼ご飯を食べようとしている。



(この人、もしかして聞き違いをしたのかしら)



そんな疑問さえ浮かんでくる。



「おめぇこの娘と知り合いだったのか」


「いや、知らねぇけど捕まえといた」



この時店主は本当に心から哀れむような目をサウラに向けた。



「そりゃとんだ災難だったな、嬢ちゃんよ」



力一杯頷きたい衝動に駆られたが、サラがそうするよりも男が答える方が早く、結局サラは微動だにしないまま俯いた。



「だがこいつは俺のこと知ってたみてぇだ」


「まぁたおめぇがどっかで引っ掛けて捨てたんじゃねぇのか」


「こんな美人、俺は忘れねえさ」




……何を黙って二人の会話を聞いているのだ。


しかも、この男の隣に当たり前のように腰をおろし、彼の声に心臓を早く波打たせて。


彼の声と同じ位に魅力的な食べ物の匂いにつられたのも無きにしもあらずだが、それにしてもこんな様子を私の町の事情を知る者に見咎められでもしたら……。



そこまで考えて身震いすると同時に目の前に野菜炒めが二つ差し出された。



にっこりと笑ってお礼を言えたのは長年の習慣の賜物だ。

そうでなければ、この心理状態で笑えるわけがない。



「食え。遠慮すんな。…………っと、名は?」



遠慮していたつもりはないが箸を持とうとしなかったサラに紅の目を持つ男は言った。



「あ……ええと……鎖……」



口にしかけて、言い淀む。20年以上親しんだ名前よりも、つい最近付けられた名前を迷わずに口にしかけた自分に愕然とする。



それが、名を奪われることなのだと改めて思い知らされる。



本能のような衝動が悪魔の名を語りたがったが、サラはそれを必死に押さえ付け、飲み込んだ。





(続)