このところ自宅で聴く音楽がピアノにばかり傾いておりましたので、ちとオーケストラの曲でもと。

先日手に取ったマウクダウェルのピアノ小品集同様に買ったまま未開封という状態であったものを

このほどまた取り出したのでありましたよ。

 

 

シャルル・グノーの交響曲集でして、もっぱらオペラ作家として知られるようにも思うグノーだものですから、

CDのジャケ画はてっきり、代表作と思しき歌劇「ファウスト」に関係した絵が使われているのかと。

実際のところはグノーの肖像なのだそうですが、Wikipediaあたりで見られる老年の写真からはちと結びつかず。

 

と、そんなことはともかくとして、シンフォニーも書いていたというグノー、

それをいつかどこかで耳にして、CDを買っておきながらすっかり忘れた頃に取り出してみれば、

なんとまあ聴きやすい曲であることか。一聴して、「ああ、ハイドンっぽいな」と思ったのでありますよ。

 

後の時代に古典的な作風を模して作曲されたものにはプロコフィエフの古典交響曲がありますけれど、

あちらは「わざと」大時代的な衣を着せて、その実、結構エッジの効いたこともしているわけですが、

グノーの方は正面切って、古典派の王道に取り組んだ印象です。

 

もちろん、1818年生まれのグノーはメンデルスゾーンシューマンあたりよりも若いのですから、

音楽史での時代の空気はすっかりロマン派なわけで、古典様式に懐古的でありながらも、

ロマン派の新風薫るようでもあって、深みはさほどではないとしてもいい曲だなと思いますですね。

 

先にハイドンっぽいといいましたが、繰り返し聴いているとベートーヴェンを思い出させる部分も随所にあり、

またグノー自身のほかの曲、例えばヒチコック劇場のテーマ曲に使われた「操り人形の葬送行進曲」とかが

浮かんできてしまうようなところもあり、面白いものでありますよ。

 

ところで、時代的にはどっぷりロマン派であろうグノーがかくも古典的な印象はいったい?と思うところですが、

そもそもフランスではオペラに人気が集中しておりまして(だからこそ、グノーのオペラをたくさん書いたのでしょう)、

器楽、取り分け交響曲なんつう楽しさありきでない曲はあまり注目されていかなったようす。

 

そうではあっても、特に独墺系の作曲家たちはこの主題労作に取り組んでいるとなりますと、

作曲家魂をくすぐられる部分もあったろうかと。「やってやろうじゃん!」てなもので。

 

グノーよりも先にベルリオーズのような異端児が出現したりはしましたけれど、

それまで取り組んでこなかった形式に取り組むとなれば、

それは古典的なところに範をとってとなるのは今も昔も同じことでありましょう。

そうしたところから、グノーの交響曲に受けた印象はかようなものであったのかもです。

 

ちなみにグノーに師事したビゼーは1曲だけ交響曲を残してますが、なんとも師匠グノーにも近い印象ですね。

とまれ、どうもフランスの作曲家に交響曲はさほどに馴染む形式ではなかったのかもしれませんが、

グノーの別の代表曲「聖チェチーリア荘厳ミサ曲」を聴いても、その親しみやすいメロディーには聴き入るところがあります。

 

 

温かみのあるキリエなどからしてもバッハの曲が見せる厳しさといったところからは離れて、

また「レクイエム」(この曲はレクイエムではありませんが)と引き比べて考えても、

モーツァルトでなくしてフォーレを思わせるところであったりするのですよね。

 

そんなことを考えると、バッハ/グノーと並べて名前の出てくる「アヴェ・マリア」という超有名曲がありますが、

異なる方向性を持った作曲家による絶妙のコラボレーションがこの曲であったのかもしれません。

また折りにふれてグノーの他の曲も聴いて、その温かみに接してみようと思うのでありました。