先日見た映画「フロリダ・プロジェクト」では、すぐそばにディズニーの魔法の王国がある土地柄であるのに、

その塀の外での現実があまりに生々しく描かれていて、決してディズニーそのものが悪いわけでもないながら

その光と影といったものを感じる印象がありました。

 

ですが、このほど見ました映画「ぼくと魔法の言葉たち」の方は逆に(?)ディズニーが持ち上げられているような気も。

まあ、たまたまディズニーだった…ということではありましょうけれど、何せタイトルにある「魔法の言葉たち」、

これはディズニー映画から流れ出るセリフの数々のことなのですから。

 

 

どんな内容であるかを例によってフライヤーからの引用で。

自閉症により2歳で言葉を失い、孤独な世界に閉じ込められた少年オーウェン。本作は、彼が家族の愛情とサポートのもと、大好きなディズニー・アニメーションを通じて徐々に言葉を取り戻していった様子と、障害を抱えながらも底抜けに明るく、前向きに社会と向き合い、自立を勝ち取るまでの姿をユーモアたっぷりに、そして感動の涙とともに描く傑作ドキュメンタリーだ。

ということですけれど、こうした人たち(と、さも十把一絡げ的にまとめた言い方は適切ではありませんが)は

何かしら秀でたものがあるなあと思うのですよね。以前にも絵を描くという点で、

アール・ブリュットの展覧会@国立新美術館を見て「敵わんなあ」と思ったりもしましたし。

 

言葉を失ったと見えたオーウェン少年は、言葉を発しない期間にせっせと蓄積に励んでいたのでしょうなあ。

大好きなディズニーのアニメを家族と一緒に「静かに」見ていながら。

それが、あるときディズニーの中のセリフで語りかけられたものですから、ぶおっと発話が噴き出たわけで。

 

それにしてもディズニー映画の全ての作品、全てのセリフを覚えているとは、一芸に秀でる以上のものかと。

経緯のほどは映画では分からないながら、養護学級のような施設で「ディズニー・クラブ」なるものが設けられ、

オーウェンはすっかりホスト役になっている。ディズニーに関する知識が誰よりも多いことを周りの誰もが

認めているからでしょうありましょう。

 

同じようなシチュエーションが子供たちの間にあったとして、誰かしらは「自分の方がよく知っている」と言い出したり、

ほかのだれかは「そんなこと、つまらない」と切って捨ててしまったり。要は妬みとかそういう感情に支配された結果、

そんな言動に及ぶのだろうと思いますが、どうも「ディズニー・クラブ」にはそうしたところがない。

それそれがそれぞれの得意分野を素直に「すげえ」と思っている。

もちろん、当人にも何かしらの自慢があって、それを周りのみんなも「すげえ」と思ってくれる。

こうした人間関係はとてもハッピーなものであると思えるのですよね。

 

個性を伸ばす教育てなことが叫ばれる昨今、本当にそれぞれの個性を伸ばそうとすると

集合教育ではもはや太刀打ちできず、それこそオーウェンを育んだような学習形態でなくては無理かもと。

ひとりひとりが違うことを良しとするには、多くの人に一律に語り掛けるやり方は返って非生産的でもありましょうし。

 

新型コロナウイルスの広がりから学校という教育現場はあれこれの工夫を強いられておりますね。

そうした中で検討されるのは、いかにして「従来同様」の教育を確保するかということでありましょう。

されど、「個性を重視する」ということを本当に考えるのであれば、

むしろ従来型が適切な方法であったかということに向き合ってみた上で、

ここはひとつ、従来型から離れる方向性を探ることもありなのではないですかね。

 

個性を重視するとは判で押したようなものを量産するのとは正反対のことであるだけでに、

これまでの教育方法の積み重ねが国家による義務教育、ひいてはその国にとっていい国民という

いわば金太郎飴製造機であったことを考えておかねば…てなことも、この映画を見ながら思ったことでありますよ。

映画の話そのものからはずいぶんと離れたところに思いは飛んだ気もしますですが…。