こぢんまりとしたものであるにせよ、近所に美術館があるのは本当にありがたいことで。また新しい展覧会が始まっていましたので、JR中央線・国立駅前にある「たましん歴史・美術館」に出かけてきたのでありますよ。題して「たましん名画鑑賞会」とは。

 

 

近くなだけに何度も折に触れて足を運んでいる施設ながら、大方は古陶磁と日本作家の作品が主であるなと思っていたコレクションの中にはドービニーの小品などもあったのですなあ。そもこの展覧会、「名画ってなんだ?」という問いかけから始まっておりましたよ。

 

ここで「ドービニーの作品もあったんだね」と申しましたように、とかく「名画」ときくといわゆる泰西名画を思い浮かべてしまう。日本人にとって、「それって、どういうこと?」というあたりを考えてもらおうという目論見のようなのですな。

 

ですので、最初はイメージどおりの泰西名画としてドービニーはじめ、西洋の作家たちの作品が並ぶのですけれど、先ほどからドービニー、ドービニーと言っておりますように、その他の画家の名はおよそ聞いたことがなかったもので…。印象に残ったものとして例えば、「夜会服の女」という作品が展示されていたペドロ・プルナという画家はピカソに師事して「ロシアバレエ団の舞台装置やコスチュームデザインを」手掛け、のちにはパリ・オペラ座の舞台美術にも携わった人だということですが、ネット検索でも何らの情報を見いだせず。ポール・オーガスティン・アイズピリの方はかろうじてWikiに項目が立って、ほんの数行の記載はありましたですが…。

 

ともあれ、展示の方はその後、明治を迎えた日本から留学し泰西名画を学んできた画家たちの作品が並ぶことに。油絵を日本に定着させるのにまだまだ苦労があったろう時代の鹿子木孟郎の「海景」はともすると銭湯に掛かったペンキ絵を思い出したりもしてしまいましたが(失礼!)、鹿子木画塾の門下であった小林和作になりますと、「初冬の伯耆大山」を描いて(セザンヌの影響を受けたと紹介されていたせいか)あたかもサント・ヴィクトワールのようでありましたなあ。「山や海などの自然をテーマに、鮮やかな色を織り重ねるように自由に組み合わせ、豪放な絵を描きました」との解説にむべなるかなと。

 

ところでそんな展示の合間合間に、日本における洋画受容について説明されていたりしたのですね。それを総合して、最終的なまとめとしてはこんなことになろうかと。長いですが、解説文を紹介しておくといたしましょう。

(黒田清輝らの帰朝後)フランスのサロンにならった文展の開設、アカデミーにならった帝国美術院の設置など、ヨーロッパのアカデミスム的価値観を根付かせる制度を日本において一から作り上げたのです。
…私たちが無意識に思い浮かべる「名画」がヨーロッパのルネサンスから印象派の作品ばかりなのは、このように明治時代後半から大正時代にかけて、黒田清輝を中心に作り上げられた日本の美術システムが、今も根強く機能している証なのです。

美術の専門教育を担う東京美術学校ができた当初、明治23年(1890年)に校長となった岡倉天心が日本美術を称揚するあまり、煽りを食らっていた洋画ですけれど、やがて洋画界の巻き返しが起こりますな。岡倉と入れ替わるように黒田清輝が東京美術学校に登場し、発足間もない西洋画科を率いていった…結果として今があるわけで、岡倉の日本美術の肩入れ具合には肯んじえないところもあるものの、もそっと岡倉と黒田が折り合いを付けながら、新しい日本の美術が構築されていったなら、名画=泰西名画というイメージがこれほど後々まで残ることにはならなかったのかも…とまあ、そんなふうなことも考えてしまいましたですよ。