大阪・高槻市の北方、山裾のあたりで能因法師伊勢という平安歌人ゆかりの場所を歩き周りましたですが、駅方面へと戻る道すがらにも天神山という鬱蒼とした森があり、このあたりでもあれこれ古墳などの遺跡が見つかっているようですなあ。

 

 

天神山遺跡で発掘時に見つかった銅鐸のことなどを記した解説板がありまして、出土した銅鐸は高さ60cmという大きなものだったと聞けば些か気になるところながら、ここでは登って行くよりも下り、つまりはだんだんと駅方向、市街地へ向かう方を選んでしまいました(少々お疲れ状態になってきていて…)。で、この天神山の裾を巻くように下っていきますと、結構な大きさの鳥居が立つお社の参道に到達するのでありまして。

 

 

石段が続いてこの先、かなり奥にお社があるということで、この入口部分には「社頭参拝所」なるものが置かれ、いわば遥拝所のような役割を担っているようで。上宮天満宮という神社ですけれど、この参拝所にはひらがなで「てんじんさん」と書かれているのが、いかにも庶民寄りとでもいいましょうか。登るのがしんどい人たち向けとなると、「富士塚」を思い出したりもしますなあ。

 

で、この際、お言葉に甘えて?石段を上がることはせずにおきましたけれど、後から知ったことに由緒として「創建は…京都北野社鎮座以前」という古社となれば、せっかくですので登ってみていたら…とも。取り敢えず、「たかつき歴史Web」からその紹介にだけ触れておくとしましょうかね。

菅原道真(すがわらのみちざね、904年没)をまつる上宮天満宮は、大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。
縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた天皇の使い(勅使)が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに道真をまつったのだといいます。

ところで、この小さな参拝所の目の前には新西国街道とも呼ばれるらしい、車通りの多い車道が横切っておりますが、お社に向かって右手方向には天満宮のある台地が回り込むように続いておりまして、車道はすぐとトンネルになるのですな。

 

 

で、そのトンネルの上にある木立、これが古墳であるということでしたので側道を登ってみることに(お社への登りを厭うたわりに、こちらへは…笑)。登り詰めてみれば、埴輪まで並べてあっていかにも古墳という体を見せておりましたですよ。

 

 

 

「昼神車塚古墳」というこちらの古墳、解説板に曰く「彌生時代の墓地のうえに、高さ約4.5mの盛土をおこなって」、「六世紀の中ごろまでにつくられたと推定され」る前方後円墳ということで。高さがあるのは盛土の故かと思いますが、埴輪が並んでいるのは中段に設けられたテラスのような部分でありましょう。

 

被葬者は詳らかになっておりませんけれど、辺りの有力者ではあろうと推定されているものの、その名が「車塚」と言い伝えられているのは、「菅原道真の車をここに埋めた」からとも。天満宮の由緒に出て来た、動かなくなった牛車のことかと想像するところながら、実際には年代が全く合わないなんつうことは、昔の人には分かりようもないわけで、近くの上宮天満宮ともども菅原道真に対する畏敬の念がそんな伝承を生むことになったのかもしれませんですね。

 


 

というところで、両親のところにはついこないだ立ち寄ったばかりですけれど、今度は月例の通院がありまして、またその介助のために出かけてきます。明日一日はお休みとして、明後日(11/18)にまたお目にかかるということで。ではでは。