摂津高槻紀行の方ももう少しだけ続きます(笑)。

 

と、考古学史料の展示を見るつもりで立ち寄った関西大学博物館ですが、まずは年史資料展示室へ。建物はレトロ感に溢れておりますが、こちらの展示のようすはまだまだあららsh九したばかりのようにも思えたものです。

 

 

ここには明治19年(1886年)の創立以来、130年を超える関西大学の、山あり谷ありのあゆみが紹介されているわけですけれど、申し訳なくもちとここは端折らせてもらって、ちと気付かされましたのは「関大はスポーツでも知られるのであったか」ということでしょうかね。

 

 

わざわざ「栄光のアスリート列伝」なんつうパネル展示が設けられていて、そういえばアイススケートやらアメリカン・フットボールやらでは確かにその名を聞いたことがあるなあと。創立経緯も踏まえて関東では明治大学のような立ち位置かと想像しましたが、スポーツが盛んでアメリカン・フットボールが強いとなるとむしろ法政か?と思ったりも。

 

それはともかく、大学の歴史を別の側面から紹介したパネル解説には興味深いところがありましたですね。そも1886年、大阪市内・京町堀に開校した関西法律学校は願宗寺というお寺さんに置かれていたのですけれど、これはどうも印象として寺子屋か?てなふうにも。されど、政府は1918年(大正7年)に「大学令」を公布、「帝国大学のほかに、公立・私立の大学設立が認められるようになった」のに及んで、明治以来、新しい教育機関が雨後の筍のごとく誕生してきていた中、ここで「大学」になれるかどうかは存亡の危機に関わると、大学昇格を目指すことになったのは何も関大だけのことではないでしょう。何しろそれまでは「専門学校令」に基づく専門学校の扱いでしたから。

 

ですがこの「大学令」、設置認可の条件がなかなかに厳しいもので、国がお墨付きを与える最高学府としてきちんとした校地の確保も入っていたそうですが、なんとまあ、その地質やらその地での飲料水の分析標まで提出が求められていたというこで。

 

関大としても校地探しを始めたわけですが、当時の関西大学監事が北大阪電鉄(阪急千里線の前身)設立者のひとりであったことから、自らの沿線にあたる千里山の地を斡旋してきたのだとか。何やら今なら理事会でも学生組織でも紛糾の種になりそうな展開ですけれど、他の候補地を退けて千里山への進出を決定したようですな。

 

さりながら、誘致しておきながら当の北大阪電鉄は工事は進んでいるものの未だ開通しておらず、最終的には鉄道が学生の足となる「大学前駅」の設置申請がなされたのは、千里山の校地で授業を開始する2週間前であったとか。いやはや綱渡りですなあ。

 

ですが、交通が機能不全(とは言いすぎか)の段階で大学が移転する例としては、後の中央大学多摩キャンパスが挙げられましょうか。1978年に学生利用が始まりますけれど、長らく「陸の孤島」状態で、通学事情が大きく改善するのは、多摩都市モノレールに「中央大学・明星大学」駅が誕生する2000年まで待たねばならなかったわけで。

 

と、余談はともかく、関西大学千里山キャンパスの誕生当時、ようやっと鉄道がとおったばかりで何もないところだったろうと思うわけですが、実はここに「東京の田園調布と並び、関西で初の本格的田園都市となる千里山の町づくり」が目論まれていたのであるとか(現在は阪急電車が走るところの沿線開発なので、てっきり小林一三がらみと思い込んでましたが、そうでもないようですな…)。

 

関東の者にはピンときませんが、千里と聞いて「ああ、千里ニュータウンであるか」と思い浮かべるも、ここでの千里山の田園都市計画は東京でいえば田園調布にこそ擬えるもので、千里ニュータウンはいわば多摩ニュータウンのようなものなのでしょうね、おそらく。

 

とまれ、ニュータウン構想より遥か以前の田園都市構想に大学を誘致して学園都市的なものともしようという発想は、むしろ東京商科大学(後の一橋大学)の移転を当て込んだ東京・国立に近いところがあるのかもしれませんですねえ。とまあ、そんなふうに興味の矛先は関西大学の歴史そのものよりも沿線開発とかそっちの方に向いていたわけでありますよ。

 

ところで、特別展示室なる別室では「関大と刀匠國平」と題した企画展が開催されておりました(展示は10/10で終了してます)。ここに展示された刀剣を作ったのは関西大学の卒業生である刀匠であるとか。歴史があって学生数も多い大学にはいろんな卒業生がいるものですなあ。

 

 

近ごろは、刃紋に見入って刀剣を愛でるといったことがブームのようでもありますけれど、個人的にはどうしても「人斬り包丁」(時代劇の見過ぎか?)という意識から離れられないでいるものですから、どうにも愛でる気分になることもできず…。

 

 

ただそうはいいながらも、「七支刀」などの古代の剣を復元したものとなりますと俄然前のめりになったり(笑)。我ながら現金なものだなと思ったりしますなあ。

 

 

 

上の「七支刀」は石上神宮に伝わる国宝を、下は藤ノ木古墳出土の剣を、それぞれ復元したものということでありますよ。さてと、かように古代ロマンに目が向いたところで、ようやっと次回には本来のお目当てである考古学資料のある常設展示室のお話に移ってまいることにいたしましょう。