静岡というところは、JR東海道線の静岡駅を挟んでざっくり、北側と南側では大きく様相が異なっておりますね。駿府城公園、というよりも今川館の昔から駿府城のあった時代を経て、常に町の中心は北側に置かれていたわけで。

 

家康が大御所として駿府に居城を置くにあたっては、その時の権力からすれば、町のどこに城を建て、どのように城下町を造るかといったあたりはいくらでもやりたい放題だったはずですけれど、わざわざ以前の城を潰してその跡地に大天守を建てる道を選んだのは、ひとえに今川館以来のその場所こそ、城造り、町造りに適した場所であったのでありましょう。地形的なところは先に『ブラタモリ』でも取り上げていたところですしね。

 

さりながら、北側一帯が悠久の歴史を辿ってヒトが暮らしていくのに常に適地であったかといえば、どうやらそうではないのですなあ。弥生時代の遺跡として夙にその名を知られた「登呂遺跡」は南側にあるのですから。駅の南口から出たバスは一直線に南へ、つまりは海の方向に向かっていきますと、しばらくオフィスビルなどが並びますが、やがていかにもな住宅地が続くようになります。そんなあたりでバスがふいっと西側に折れて入っていきますと、住宅街の中にやおら登呂遺跡の広がりが見えてくるのですなあ。「2000年前の日本の田園風景がここにある」(遺跡HPのキャッチ)てなもので。

 

 

長らく、その土器の意匠の多様性に興味がそそられたからでしょうか、どうしても弥生よりも縄文に注目してきておりましたけれど、ここへ来てようやっと弥生時代から古墳時代へのつながり、その不透明さに対する関心も高まりつつありまして、何度か静岡を訪ねつつも登呂遺跡に足を向けたのは初めてなのでありましたよ。

 

ですが、いざ遺跡の広がりを目の当たりしてみますと、「来たなあ!」感がむくむくと。あちこちの遺跡やら古墳やらを訪ねたりしても、「来たなあ!」感が毎度あるわけではない。先に大阪・高槻で弥生時代の安満遺跡に立ち寄りましたですが、空間の広がりという点では登呂遺跡よりも圧倒的な広さを感じられるものの、印象はこちらの方が強い。単純な理由ですけれど、再現建物が(上の写真にも見られるように)林立しているからでもありましょうかね。

 

 

とまれ、まずはバス停のすぐ脇にあるガイダンス施設を覗いてみるとことに…したものの、詳しいことは「登呂博物館」を訪ねてもらおうということなのか、さほどのガイダンス的な要素もないようでして、「マンガで見る登呂遺跡発掘物語」を眺めたりしたくらいという…。

 

 

まあ、これでもって分かったことは発見が太平洋戦争の最中で、歴史上の大発見と色めき立つ人々をよそに戦況窮迫の折から発掘作業は中止を余儀なくされたということ。戦後になって発掘は物資もなにも無い中で再開され、そのことを新聞記事で目にした東京の中学生から届いた激励の手紙と10円の寄付(今だったらいくらぐらいになりましょうかね)に、発掘に携わる一同が大いに励まされたことなどでありました。今なら差し詰めクラウドファンディングという作戦に出るところでしょうなあ。

 

ということで、あまり詳しいことが分からないガイダンス施設でしたので、やはり博物館の方へ行かねばなりませんですね。館内をひと巡りしてまたじっくり再現建物のあたりを歩き回ってみた…というお話に続いてまいりますよ。