毎年年末になると聞こえてくる音楽。ベートーヴェンの「第九」あたりを思い浮かべたりもしますですが、一方で大晦日のTV番組で大合唱(実際には斉唱ですかね)される「蛍の光」もまた年末らしい、「ああ、年越しであるな」という音楽ではなかろうかと。ただ、♪蛍の光、窓の雪、ふみ読む月日重ねつつ…という歌詞はやはり勉学に勤しんできた日々を振り返るものと思われ、♪あけてぞ今朝は別れゆく…と続くことから、卒業式の歌であるとは、そも作られた当時から想定されていたようですな。今でも卒業式に「蛍の光」が歌われているのかどうかは知りませんですが、「蛍の光」にまつわるあれこれ、『唱歌「蛍の光」と帝国日本』という一冊に教わったような次第でして。

 

 

元来、「蛍の光」の原曲はスコットランド民謡であるとはよく知られたことですけれど、明治の初め、あらゆる欧化政策の一端には音楽教育もまた含まれるもの、元々日本には無い音楽でしたから、賛美歌やら欧米各国の民謡に独自の歌詞を付けて「唱歌集」が編まれることになったのであると。そして、1881年(明治14年)、日本で初めて作られた『小学唱歌集初編』にはすでに「蛍の光」は載っていた(初出時の題名は単に「蛍」であったとか)そうなのですね。

 

学校教育にも徐々に音楽の授業が取り入れられ、科目名そのものも「唱歌」と言われた授業は発声による体の鍛錬、耳の発達を目したところもあったようで。しかも、時は富国強兵の時代、学校は偏に「御国」の将来に役立つ人材育成が目的ですので、借り物のメロディーに付される歌詞は吟味に吟味を加え、高唱する生徒・児童には「徳性の涵養」につながる(と当時信じられた)内容となってもいたようですね。

 

実際に「唱歌集」に掲載された段階では、今やほとんど一番しか歌われない(稀に二番までということもありましょうか)「蛍の光」には4番まで歌詞が付けられており、後に言う「尽忠報国」的な色彩が醸し出されているいう。しかも、4番には♪千島の奥も沖縄も八洲のうちの護りなり…と、自国の領土の明示といいますか、そんな歌詞があったものですから、日清・日露から第一次・第二次大戦と戦争が拡大する中、4番の歌詞には台湾や樺太、さらには昭南(シンガポール)やアリューシャン列島が歌い込まれいった…となりますと、そりゃあ、歌われなくもなりますですねえ。

 

さりながら一番(もしくは二番まで)の歌詞であっても、今に至るも歌い継がれているのはそもそもはスコットランド民謡であったメロディーが日本に馴染みの「ヨナ抜き音階」だったこともこれあり、「唱歌集」を作った当事者たちの思惑以上に日本人の中に浸透したということでもありましょうか。これが、太平洋戦争中にはスコットランド、要するに英国の音楽ではないかとして、鬼畜米英を叫ぶ側からすると排斥すべき音楽の対象ともされたということなのですな。それにも関わらず、どっこい生きてる「蛍の光」と思ったりするところです。

 

ただ、「蛍の光」が生き残っている一端には歌詞の方はともかくとして(今のご時世、蛍の光窓の雪ってなんのこと?でしょうしね)、やはりメロディーのお馴染み感なのでしょう。しかも思い浮かぶのは唱歌「蛍の光」の4拍子はなくして、3拍子だったりする。デパートなどで閉店間際になると店内放送で流れてくる、あのメロディーですな。これには「別れのワルツ」という歴としたタイトルが付けられていて「蛍の光」とは区別されますけれど、作曲家・古関裕而が編曲したものなわけです。

 

戦時中には多くの軍歌を生み出したことでも知られる古関が(編曲にせよ)作った「別れのワルツ」は、結果として「蛍の光」の存続に大きな力を発揮したのかもしれませんですねえ。なんだか不思議な廻りあわせでもあるような…。