…ということで静岡市の登呂遺跡を訪ねて、その片隅にあります登呂博物館に立ち寄ることに。

 

 

コンセプトは「弥生人の暮らしを知り、体験するミュージアム」ということで、こういっては何ですけれど、2階の展示スペース以上に1階の弥生体験展示室という無料スペースにこそを力が入っているのではと思ったり。すでに無料スペースにして、このように再現建物がありますしね。

 

 

かような臨場感をもって、主に子ども向けとは思いますが、体験指導員とボランティアガイドの方々が待ち構え、「弥生時代はこんなだったんだよねえ」ということを体験させてくれることになっておるわけで。さらには、発掘時の出土品も展示されていたりして。

 

 

まあ、レプリカ展示もありますので、本物は(有料の)常設展示室で見てね!ということでしょう。土器の棚の右手に何やら柱のようなものが見えておりますが、クローズアップしますと、このような代物です。

 

 

てっぺんに取り付けられた形は、まあ、鳥でしょうかね。水田にやってくる鳥を避けるためのものであるか?と思えば、解説に曰く「鳥はイネの魂を運ぶ神の使者として、米作りのムラで厚い信仰を受けていました」と。害鳥除けどころか、神様の使いとして崇め奉るための造形であったのですなあ。そうでしたか…。

 

この鳥形もそうですけれど、弥生時代には木材を加工してさまざまなもの作りをしていたということになりますな。典型的なのは農機具だと思うわけですが、こんなものまで作っていたとは。楽器の琴だそうで。

 

弥生時代の「音」と言えば「銅鐸」を思い浮かべるところでして、何らかの祭祀に使われていたであろうとされていますけれど、琴もまた「まつりごとに使われていた道具のひとつ」と解説に。弥生時代の祭祀は結構豊かな鳴り物の響きを伴っていたのかもしれませんですねえ。と、すっかり無料スペースに長居してしまいましたが、ともあれ有料の常設展示室へ。有料といっても、大人300円なのですけどね。

 

 

常設展示の始まりは、やはり弥生時代らしく「稲作の伝播ルート」の紹介から。中国大陸から朝鮮半島を経由して…とばかり思い込んでいたところが、華南ルートとして紹介されているのは、台湾から南西諸島を北上してきたというもの。昔の人は本当に海をものともせずに渡り歩いていたのですなあ。ちなみに、稲作の始まりについては、このように説明されておりましたですよ。

水田による稲作は、およそ7,000~6,500年前に中国の長江(揚子江)中・下流域ではじまったと考えられています。日本ではまだ縄文時代前期で、自然の食料を採集する生活をおくっていました。

稲作が伝わったことは収穫の多さからいっても、それが貯蔵できる食料であるという点でも、安定した生活を保障することになったものであるとは思うものの、蓄えられた財がさまざまな葛藤やら諍いやらの種にもなったとなると、いいことばかりではなかったような…。もちろん今でも、日本人としてはコメ無しの生活は考えられないのですけれどね。

 

といって、弥生時代の人も当然にコメのみにて生きるにあらずだったわけで、バリエーションとしては今とさして変わらないほどに多様だったようですなあ。水田を拓くために山や森から平地へと移ったが故に、海の幸へのアクセスにも近くなったでしょうから。

 

 

縄文の頃は川魚が多かったのではと思うところですけれど、この解説パネルに出てくる魚たちはタイやサワラ、スズキと海の魚ですものね…、今度は食べ物の話ばかりになってますが、当然に登呂遺跡がどんなであるかという展示はあるわけでして。全体像はこんなです。

 

 

広い水田の向こうに建物が見えています。バスで到着すると、この模型では一番奥側から見ることになりますので、水田の広がりには気付きませんでしたが、たくさん作付けしていたようでありますよ。と、ここから先はまた遺跡の中を歩き周りながら、博物館の解説を咀嚼してまいることにいたしましょう。長くなりましたので、この次に。