先日、鹿児島の旅を振り返って指宿の歴史に触れる中、「16世紀半ばにポルトガルから来航して指宿・山川港に滞在した商人が日本滞在記を残して、これを読んだフランシスコ・ザビエルが日本渡航を決意し…」といったことを記したりしていたところで、「そういえば…」と思い出したのが、東洋文庫ミュージアムで開催中の展示のことでありまして。『キリスト教交流史-宣教師のみた日本、アジア-』と銘打った展示が5月12日まで。思い出したときに行っておかねば会期終了になってしまうと、駒込まで出かけていったような次第です。

 

 

毎度訪ねる度に、ミュージアム入口に設けられた見上げるばかりの書棚は実にいいつかみであるなあと思いますですね。こんなふうに堆く積みあがった書籍に囲まれたいと願う御仁は結構おられるのではなかろうかと。

 

 

ま、それはともかくとしまして、これの裏側から始まる展示の方をじっくりと見ていくわけですけれど、キリスト教が日本へと伝えられた経緯からして、交流史というと始まりは戦国時代あたりかと思ってしまいますなあ。さりながら、広くアジアへの伝播を考えれば、大航海時代以前に遡っておく必要がありそうですねえ。

 

 

この解説には。シルクロード経由で唐時代の中国にネストリウス派のキリスト教が伝わり、いっときは大秦寺と呼ばれた教会施設も作られるも、結局のところ根付くに至らず、「10世紀に唐が滅亡すると姿を消し」たとありまして、この辺りはかつて世界史の授業でも触れられていたような。

 

 

こちらはいっときにせよ、中国で確かにネストリウス派キリスト教(景教)が受け入れられていたことを示す証とも言えましょうか。781年に景教寺院内に建てられた石碑の拓本に「大秦寺」という文言が見えていたりして。

 

ただ、ネストリウス派が東方に目を向けたのは、431年のエフェソス公会議で異端とされたことから、信徒は難を逃れてペルシアに赴き、さらに東方に活路を見出そうとした…というのが背景だったのですなあ。

 

後に、ヨーロッパ世界がイスラム勢力に脅かされた際、遥か東方にプレスター・ジョンという救世主(?)がいると信じられたことがありましたけれど、プレスタ―・ジョンはネストリウス派の司祭とも考えられていたようで。かつて異端として排斥した一派に、キリスト教世界がイスラム禍から救われる希望を抱くとはいささか虫のいい話でもあるように思えますが…。

 

と、前史ともいうべきあたりをさらっと見て後、大航海時代になってどんどんキリスト教が出張っていくことになりますですね。この点は航路開拓が進んで世界が(スペインやポルトガルにとっては)狭くなったことに便乗して…という側面で見てしまうところながら、やはりこちらについても、1517年以降、ヨーロッパ世界を宗教改革の波によってカトリックが脅かされたことで、広く世界にカトリックを広める(つまりは信者数でプロテスタントを凌ごうということか)目的があったようでありますよ。

 

で、その海外布教の最前線に立ったのが「イエズス会」であったわけですが、同会創立者の一人とされるイグナティウス・デ・ロヨラの功績を後に伝えるべく出版された伝記の扉絵には、このような絵が掲載されていたのであると。

 

 

 

「イエズス会による世界宣教の寓意が込められてい」るとして、「(地球儀の周りに配された)四人の人物はそれぞれ四大陸(左下から時計回りにヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジア)に見立てられ、彼らは天上のロヨラから放たれる光を仰ぎ見てい」るという図であるそうな。なんというか、高飛車感丸出しな気がしてしまいますなあ。

 

まあ、ローマ・カトリックの本山やらイエズス会の本部やら、上で偉そうにしている人たちは常に「上から目線」なのかも(そんなことだから、宗教改革が起こったりもしたのだろうと)しれませんですが、個々の宣教師は大洋の波濤を乗り越える苦難を越えてやってくるのですから、皆が皆、偉そうにはしていなかったでしょうけれど、ともあれ、そうした状況の中でフランシスコ・ザビエルも登場してくるのですな。

 

 

死後半世紀ほど経って刊行されたザビエル伝記の扉絵には、日本で(教科書などにも載って)最もよく知られた図像とはずいぶん違う容貌が見てとれますですが、それはともかく、日本滞在中に「西日本各地の有力大名らと面会して、改宗をするよう積極的に働きかけ…その結果かなりの信者を獲得し」たわけですね。豊後の守護大名・大友宗麟はその最たるところですけれど、農民・町民なればいざ知らず、守護大名を振り向かせるのに高飛車な臨み方で難しかったでしょうから、ザビエルのアプローチが偲ばれるというものです。

 

また、ザビエルの後に日本への布教に関わったアレッサンドロ・ヴァリニャーノにしても、その臨み方については展示解説にこんなふうに書かれておりましたよ。

彼(ヴァリニャーノ)は1579年以降の3年間、西日本各地を視察するなかで、日本の慣わしや政治・社会状況に配慮した「適応」布教方針を打ち出し、その実践を部下に指導します。

とまあ、こうした方針が一定成果をあげて日本にもキリスト教信者が増えていきましたけれど、それも束の間、日本の最大権力者となった秀吉、家康に疎まれて禁教となってしまうのですよね。ですが、日本の為政者と宣教師という構図だけでなくして、イエズス会と他の会派とのあしの引っ張り合いも災いしたのではないですかねえ。展示解説にはこのように。

もともと日本の布教はイエズス会の独占でしたが、1580・90年代には新たにフランシスコ会などの托鉢修道会もメキシコ・フィリピン経由で来日を果たし、日本各地での拠点形成に乗り出します。その後、イエズス会と托鉢修道会との間には、日本布教の権利や担当区域の分担、布教方針をめぐる摩擦が起き、対立します。1614年に禁教令が発布された後も、各修道会が同じ町で潜伏布教できるかどうかで争うなど、対立構造は迫害下においても続きました。

イエズス会と並び立っていたのはフランシスコ会のほかにも、ドミニコ会、アウグスティノ会があったそうですが、修道会が互いに仲がよろしくなかったことを示すひとつがこちらの印刷物でしょうか。

 

 

イエズス会が本部の送っていた報告書の中で、日本人イエズス会士3名が殉教を遂げたことを報告している部分になります。が、このときは長崎にあるモニュメントが示すように殉教者は26人だったと。さりながら、26人のうち23人はフランシスコ会関係者であったことから、イエズス会としては「3人が殉教してしまいました」という報告になったとは…。布教に厳しい時期なれば一致団結して…などという算段は全く無しに縄張り争いのようなものが展開したとなれば、見ている側も「やれやれ…」と思ったことでありましょうなあ。

 

結局のところ、日本におけるイエズス会の活動は、先に読んだ小説『パシヨン』に取り上げられた小西マンショを最後の司祭として殉教したことで終焉を迎えるわけですね。以来、日本のキリシタンは長い長いあいだ潜伏せざるをえないこととなりまして、幕末にパリ外国宣教会のプティジャン神父が「信徒発見」に遭遇する…というあたりは、昨2023年秋に長崎で訪ねた大浦天主堂のところで触れたとおりかと。

 

ただし、交流史という点では日本の場合、明治になっても禁教状態は続いていたのですよね。今につながる最終段階として、解説に曰くこのように。

西洋諸国からの批判を受けるかたちで明治政府は1873年に禁制高札を撤去します。以降、日本においてキリスト教信仰はカトリック、プロテスタントを問わず黙認されることとなりました。

差別の解消という点では「めでたし、めでたし」なのでしょうけれど、キリスト教会派ごとの料簡の狭さといいますか、今だから思えるのかもしれませんが、やっぱりなんだかなあですよね。もっとも、この辺りの会派争いはキリスト教に限った話ではないのですけれど。あらゆる場面で思うことですが、もそっと仲良くできんものであるかなあと、余談ながら。