ユネスコの世界文化遺産に「明治日本の産業革命遺産」という括りであちこちの史跡がまとめて登録された時には、「こういう登録のされ方もあるのであるか」と思ったものでありまして。北は東北・岩手県釜石から南は九州・鹿児島まで点々と。「ふーん」てなものでありましたよ。

 

ではありますが、はるばる鹿児島まで出かけたものですから構成要素となっている史跡を訪ねてみることに。ただ、その前にちと寄り道として城山公園へ登ってみたのですなあ。鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」に「市街地の中心部に位置する標高107mの小高い山」、「西南戦争の最後の激戦地」と紹介されている場所ですな。今では市民の散策路、観光客にも市街を見下ろす展望台として立ち寄る人も多い所であるということで。

 

 

確かに鹿児島市街ともども、正面に桜島の雄大な姿を望むに恰好のロケーションであろうかと。ぼんやりとですが、西郷隆盛も何度となくここからの展望を眺め、劣勢となった西南戦争最後の日々もまた…なんつうふうに思ったりも。今では日が落ちると夜景を見に来る人もたくさにるようですなあ。が、それはそれとして、一旦は町の喧騒を離れていかにもな里山風景の中へと移動し、訪ねたのは「関吉の疏水溝」、世界遺産構成要素のひとつです。

 

 

のどかな景色の中をゆっくり歩いて、程なく到着。さすがに世界遺産だけあって?実に立派な案内板が建てられてありましたですが、その説明書きよりは鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」の紹介文の方が理解の助けになりそうですので、説明の引用はそちらを。

 

関吉の疎水溝は、江戸初期に農業用水のために建設。そして1722年、島津吉貴が仙巌園へ水を供給するために磯地区まで延長します。その後、集成館では高炉や鑽開台の動力源として水車を必要としましたが、磯地区には大きな川がないため、島津斉彬は関吉の疎水溝の改修や整備を実施。取水口では川幅の狭い場所を利用し、江戸の土木技術により水位をかさ上げして水路に水を引き込みました。現地には今も当時の職人が岩盤を加工した痕跡などが残っています。現在の取水口は、幕末の取水口が大正時代の大洪水で流されたため上流部に移設したものです。

 

 

左側に切れ落ちた谷が本来の川でして、これの少し上流にある取水口から得た水を右側の疏水が流していくという具合。取水口に向けて、遊歩道が整備されておりましたよ。

 

 

なるほど、この高低差が疏水の取水に利用されているわけでありますね。ですが…。近代化事業とは異なるにせよ、そもそも(この関吉も同様ですが)農業には水が必要で、水路を拓くといったことは日本中のあちらこちらで行われていたわけで、ことさらにここの疏水に特殊な技法が使われたということでもなさそうで。要するに、鹿児島市街に近い集成館という幕末の工場に工業用水を送ったということが世界遺産を構成する「部分的要素」だということなのでしょう。世界遺産、世界遺産とことさらに何かしらの期待を寄せてしまうと、少々肩透かしになるかもしれませんですね。部分を見て全体を想像することが必要であろうかと思った次第でありますよ。

 

と、いささか残念感を醸してしまっておりますが、実はこの次にはさらに「うむむ…」という事態に陥って…となるのですが、それは次の話として。ここではまた余談をひとつ。

 

 

「関吉の疏水溝」見学には、こちらの施設の駐車場利用が可ということで覗いてみた「せきよしの物産館」です。やっぱり東京と比べて野菜が安いなあと見て回ったわけですが、とにかくたくさんの幟旗を見ても「さつまいも推し」であることが分かるのでして、さすがに鹿児島と。ご存知の方はご存知なのでしょうけれど、さつまいもにもいろいろ種類があって味わいが異なるようで。

 

 

元来、やきいもと言わず、天ぷらにつけ何につけ、さつまいも素材を敢えて食することの無い者としましては、「そうなんだねえ」と。確か桜島の有村溶岩展望所の売店だったと思いますが、同行者の中には「鹿児島と言えばさつまいもでしょ」と紅はるかのやきいもを買った者がおり、お裾分けをひとかじりしたですが、「ほお!」とは思いましたですねえ。ま、それでも「せきよしの物産館」の推しぐあいを見て、もう一度とはならなかったのではありますが(笑)。