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2025春のおでかけ その2 吉原散策

 循環バスの行き先は、吉原の中に新設された、江戸新吉原耕書堂です。ここは、蔦重の店の名前を借りた、大河ドラマ館と連動して作られた土産物屋です。つまり、蔦屋重三郎が作った耕書堂をオマージュした土産物屋さんです。これが吉原のど真ん中にあるわけで、大河ドラマ館見物を終えたお客さんが、観光ついでにやってくるわけです。

 令和の耕書堂は、本当に土産物屋で、今風の吉原や「べらぼう」関連グッズが売っていました。なかでも、1枚1500円の浮世絵ポスターが売っていて、私、これが欲しくなりました。でも、ちょっと大きいんだよね。なので、ここで買ってしまうと、持ち運びが不便だし、その後の行動を考えてしまい、買い控えました。いやあほんと、結構大きくてカバンに入らないんだよね。

 ちなみに、この耕書堂は、そう名乗っているだけで、江戸時代の“耕書堂”の場所にあるわけじゃありません。そもそも、本当の耕書堂は吉原の外側の五十間道にあったわけだからね。

 それにしても、この耕書堂さんは、本当に吉原のど真ん中にあって、周囲は、現在の女郎屋とも言える、ソープランドばかりが目立つところでした。どこも営業中で、店の前に客引きのお兄さんが立っていたりするんだけれど、そこに大河ドラマ館を見た観光客のジジイやババアがキャハキャハ言いながら歩いているわけで…これは軽く営業妨害だなって思いました。

 現在の吉原も、やっぱり、性欲を満たす街である事には変わりなく、それを大河ドラマで取り上げられたからと言って、安易に観光地化しちゃうのは…難しいですね。こんなに観光客がウロウロしていたら、お姉さんを抱きに来づらいよねえ…。

 我々は、耕書堂とその周辺を軽く冷やかした後は、吉原神社に向かいました。ドラマに出てくる“九郎助稲荷”の現在の姿です。当時から何度も移転しているので、場所は当時とは、違うのかもしれないけれど(たぶん違います。おそらく現在の場所は、当時のお歯黒どぶのすぐ脇、あるいはどぶの上だと思う)、まあそんな細かいことは考えない事にしました。

 九郎助稲荷を参拝した後は、反対側に有る吉原大門に行きました。当時は立派な大門があったようですが、現在は、小さな案内ポール兼街灯が立っているだけですが、当時はここで、遊郭とそれ以外が分かれていたのだと思うと、何とも言えない切ない気持ちになります。大門のすぐ外の道は…昔のお掘だったのかもしれませんね。

 それにしても、吉原神社と吉原大門跡は、昔の吉原の端からは端までに当たるのだけれど、歩いて移動できるくらいに近い…ってか狭いね。吉原って、ほんと、小さな街だったんだと思います。

 そこから五十間道を歩いて、現在の吉原大門の交差点に向かいます。この五十間道には、当時の耕書堂があったらしいですが、今はもちろん、そんな面影はありません。

 現在の吉原大門の交差点には、有名な見返り柳がありますが、これも区画整理のために、移転して現在の場所に立っているそうで、当時の柳とはモノも場所も違うようですが…まあ、細かいことは気にしないようにします。

 べらぼうの時代は、今から約250年ほど昔(ドラマは1772年の明和の大火から始まります)になるわけだから、あれこれ違っていても仕方ないし、東京は大空襲で焼けてしまった街だからね、当時のものがそのまま残っているわけもないのです。だから、当時そのままでなくても、当時を偲ぶものがあれば、それでもう十分…と考えるべきなのです。

 で、吉原大門からは都営バスに乗って、上野に向かいました。

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