こんばんは、茜です。
今日は久しぶりにマクドナルドでご飯を食べました。
誰も並んでる人がいない時間帯だったもので、何にしようか迷う時間もなくカウンターに行ったものだから、頼もうかなと考えていた第一候補がなくて10秒近く悩んでしまいました。
その気は全くなかったけど、ダブルチーズバーガー頼んでしまい、これは確かかなり人気メニューだったな後で気づきました。
みんなが好きなものに流されるのがそんなに好きじゃない私です。
途中、短髪の男子高生4人組が入ってきて、そのうちの一人が食べる前に手を合わせて「いただきます」と言っていたので好感度上がりました。
きちんと家でもやってるんだろうなぁ。
手を合わせて、いただきますをする人は、きっと幸せな家族なんだろうなと想像する。
家族の誰かが怖い、空気が悪い、会話がない家庭ではそんな平和な祈りさえなさそう。
そして家だけでなく外でもやるってことは、その子は素直でいい子なのだろうと推察する。
ところで、食べてる時に店内にマクドナルド専用?の店内放送があったのだけど、帰り間際にお悩み相談みたいなコーナーが始まっていた。
恐らく学生からの悩み相談で、「好きと言われるのは嬉しいのに、好きと言えないのはどうしてでしょう」という話題に。
何気に難しい。
それに対してどう答えたのかは、残念ながら店を出てしまって聞けなかった。
好きと言われるのは嬉しい。
でも大人になると、個人的に好きと言われてもいろんな下心を想像してしまう。
しばらく歩きながら考えたのだけど、私自身ではなくて、私が作り出したものを好きだと言われると嬉しいと思う。
例えば私が描いた絵だとか、成果物。
仕事であれば仕事のやり方でもいい。
本当はそれを通して私が認められた気分になって心地いいのに、直接好意を示されることを望んでいない。
いつからこんな素直じゃない大人になってしまったんだ…
昔から言葉に対して意味を持ちすぎていたところはある。
好きと言えば、何が何でも好き。
嫌いと言えば、何が何でも嫌い。
だから、この前好きだと言ったのに、突然嫌いと言われたら人間不信になる。
気まぐれが苦手な方。
だから、私のことをダイレクトに好きだと言われても、ちょっと怖いかもしれない。
またまたぁ、今だけのノリでしょう?明日には変わってるんじゃないの?ってなる。
それでも、この前仕事で新しいことを始めた人に対して「なんだか私も勇気が出ました」と言った時、演技ではなく本当に嬉しそうだった。
その人が好き、とは少し違うけど、その人の行為を尊重し、勇気づけられたと伝えたのだ。
きっと間接的にその人への好意を示すと、人は喜ぶのかもしれない。
誰かに褒められたいけど、きちんと私の考えや想いを見て、私の何が好きなのかを言ってもらいたい。
あんまりそれを求めると面倒な人間だと思われる。
好きと言われるのは嬉しいのに、簡単に好きとは言われたくない私です。
そうそう、関東ではマック、関西ではマクドと言うけど、ポテトはマックフライポテトなんだから、やっぱり公式はマックじゃないかな。
答えは知らない。
知らない方がいいことも、知らなくていいこともある。
…後者かもしれない。
では今日も、ごきげんよう。