太田述正コラム#12347(2021.10.25)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その3)>(2022.1.17公開)

 「圧倒的多数の藩は、藩祖が徳川家康の天下取りに貢献し、生国や本領とは離れた場所に新たに領地を与えられたのであった。
 確かに、例外ながら中世以来の旧領で立藩した外様居付(いつき)大名(旧族大名)はいた。
 九州の島津氏・鍋島氏・大村氏・伊東氏、奥羽の津軽氏・南部氏、北海道の松前氏、対馬の宗氏らが代表的存在である。
 これらのなかで、島津氏と宗氏そして松前氏は、琉球・朝鮮国・アイヌとの交易という外交的配慮によって存置された。

⇒島津氏に関しては、藤田は黒嶋敏(注4)の説に拠っているのでしょうが、「島津討伐を断念した真の理由ははっきりしない。「関ヶ原 島津退き口」(学研M文庫)の桐野作人氏は朝鮮の役で敵軍に恐れられた島津の軍事力の強さに注目する。関ケ原には少数しか兵を派遣せず、島津本隊はほぼ無傷で決戦にそなえることができた。「島津四兄弟」(南方新社)の栄村顕久<(注5)>氏は九州南端という地理的状況を指摘している。「三方を海に囲まれ攻められるのは北からだけ。国境は険しく街道も少ない」(栄村氏)という。関ケ原で戦った義弘は桜島に謹慎。長兄で実質国主の義久が「畿内における出先のメンバーが勝手に戦っただけで、本国は関わっていない」と強弁し、家康との厳しい講和交渉に当たった。福島正則、黒田如水らも積極的に調停に加わったという。光成準治<(注6)>・九州大学大学院特別研究者は、「島津問題」が当時はまだ脆弱だった家康の政治的立場を浮き彫りにしていると分析する。「関ケ原が終わった慶長5年末の段階では上杉景勝も服属しておらず、島津討伐を行おうとすると両面作戦を展開する必要があった」と指摘する。一方「関ケ原は1日で終結したが負傷した兵も多く、東軍勢力の戦意は高くなかったのが実情」と光成氏。さらに家康はまだ豊臣政権の第一人者に過ぎず、すべてを独断で決める状況にはなかった。光成氏は「福島正則や黒田如水は島津問題を自らの手で解決することで西国を統括する立場にあると家康に認めさせたかったのだろう」としている。栄村氏は「島津を攻めるならば九州の黒田如水らにその任を当てなければならず、危険性も大きいと家康は認識した」と語る。戦後の九州における黒田や加藤清正の存在感が巨大なものになるからだ。逆に島津と通じる恐れすら皆無ではなかった。徳川側で島津問題を担当し平和的な解決を目指していたのは井伊直政や本多正信らだった。家康の側近中の側近で、いわば外相と官房長官。家康の心中を推し量れる立場にある。家康自身に最初から島津討伐の意志が薄かったという見方もできそうだ。」
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841588022032018000000?page=3
といったところではないでしょうか。(太田)

 (注4)1972年~。青山大文(史学)卒、同大院博士後期課程中退、東大史料編纂所助手、助教、(青山大?)博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B6%8B%E6%95%8F
 (注5)1980年~。鹿児島国際大卒、民間企業に勤務しながら、中世、近世史、とりわけ島津氏と中央政権との関係について研究を重ねてきた。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%A0%84%E6%9D%91%E9%A1%95%E4%B9%85_200000001122899/biography/
 (注6)1963年~。広島県庁勤務の後、九大院博士課程修了、同大博士(文学)、「鈴峯女子短期大学非常勤講師、LEC専任講師。専攻は日本中・近世移行期史、空間構造史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%88%90%E6%BA%96%E6%B2%BB

 なお、所領の大幅削減のうえ本城を他国に移した中国地域の雄、毛利氏の場合は、国替に近い処遇を受けたとみるべきである。」(iv)

(続く)