中高年世代でこの方の名を知らぬ野球ファンは、まずいないはず。
島岡 吉郎 監督
今日は、明治大学野球部を長年率いたこの名伯楽の命日・三十三回忌にあたります。
島岡監督は私と同じ信州人・・・1911(明治44)年に長野県下伊那郡で生まれました。
野球の名門・松商学園から誘いもあったのですが、父親の勧めで上京し旧制豊山中学(現・日大豊山高校)に入学。
しかしそこで教師を殴って退学(!)させられ、その後いくつかの学校を転々とした後明治大学政治経済学部に入学、応援団長として活躍・・・つまり野球部には所属しませんでした。
大学卒業後は証券会社に勤務するなどしましたが、終戦直後の1946年に明治中学の野球部監督に就任し、同校を3度甲子園に出場させます。
そして1952年、かねてより助監督を務めていた明治大学野球部の監督に就任。
ところが野球部OBでなかった島岡氏の抜擢は、OB会の反発・部員の集団退部という混乱を招きます。
しかしそんな逆風をものともせず部内の改革などを推し進めた島岡監督は、早くも翌年秋に10年ぶりの六大学リーグ戦優勝を達成して周囲の雑音を抑えると、その後1988年秋季リーグ戦まで勇退・復帰を繰り返し、都合3回監督の座に。
その間六大学リーグ戦優勝15回・大学選手権優勝5回、そして全日本チームの監督としても日米大学野球で2度優勝という、輝かしい戦績を収められました。
晩年は糖尿病により体調を崩しながらも車椅子で陣頭指揮を執り続けた島岡監督の姿には、まさに鬼気迫る迫力を感じたものです。
しかし引退の翌年・1989(平成元)年4月11日・・・母校が開幕戦で早大から勝ち点を挙げた翌日、77歳でこの世を去られました。
慶應・早稲田に勝ちたくて寝食を共にした合宿所のスリッパに両校の名を書いて選手に踏ませる等々、選手のモチベーションを上げる独特の工夫は有名。
しかしその一方で上下関係が厳しかった戦前に、しかも10代半ばで教師を殴った程の暴れん坊でしたから、鉄拳制裁は当たり前。
歴代の主将で一度も殴られたことがなかったのは、かつて巨人V9に貢献した名外野手で横浜DeNAの初代GMを務めた高田繁さんと、闘将・星野仙一さん(↓)の2人だけだったとか。
(※その理由について島岡監督ご自身は 「高田は万事に隙がなかったから殴れなかったが、星野は殴ると理屈をこねそうだったから」 と語っていたそうな。 高田さんはともかく、島岡監督と同じタイプに見える星野さんに対する評価はちょっと意外?)
しかし多くの教え子たちは〝御大〟と呼んで慕い、現在でも墓参りをするOBが多数いらっしゃるとか。
おそらくそれは鉄拳・スパルタ教育のウラに、飽くなき勝利への執着心と選手たちへの深い愛情があったからではないでしょうか。
4年生の就職活動では選手の志望企業に自らが足を運んで推薦し、しかも控え選手や裏方を優先したという逸話に、それが表れていると思います。
モンスターペアレンツを恐れ、生徒たちを腫れ物に触るかのごとく接している今時の教師たちには、是非島岡御大関連の著書を熟読していただきたいもの。
日頃から口癖だったという〝人間力〟なる言葉には、ドライな現代人の心に響くものがありますし。
もっとも御大と同じ鉄拳制裁を今やったら、タダではすまないでしょうが・・・。
明治男の気骨と底知れぬ人間的魅力を持ち合わせた名監督のご冥福を、あらためてお祈り致します。