番狂わせ | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

以前、イチロー選手が小学生時代に書いた作文が話題になったことがありましたが、同じ小学校の卒業文集に 「夢は政治家とお笑い芸人」 と書き、それを実現した人がいました。 その

 東国原 英夫 

 

が宮崎県知事選で見事当選を果たしたのが、今から15年前の今日のことでした。

 

1957(昭和32)年に宮崎県都城市で生まれた彼は、専修大学経済学部を卒業した1980年の12月に、人気番組『笑ってる場合ですよ』の〝お笑い君こそスターだ!〟のコーナーに漫才コンビとして出場し、チャンピオンに。

 

その際、同番組に出演していたビートたけし師匠の楽屋を訪れ弟子入りを志願し、翌年弟子第1号として付き人に。

その後は〝そのまんま東〟の芸名でたけし軍団の一員としてタレントデビューを果たしますが、1986年12月のフライデー襲撃事件、
また
自身の軍団メンバーに対する暴行事件や淫行疑惑でたびたび芸能活動を自粛する羽目に。

 ※フライデー襲撃事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


その自粛期間中だった1987年に書いた推理小説 『ビートたけし殺人事件』 がベストセラーとなり、翌年ドラマ化。

たけし軍団メンバーや自身も出演し、この時ヒロイン役で出演したかとうかずこさんとは後に結婚・離婚するなど、タダでは転ばないところは、さすが?

そして子供の頃の夢だった政治家への転身が実現性を帯びたのは、2016年。

2014年に社会人AO入試で早稲田大学政経学部政治学科に入学し勉強していた彼は、2年後に中退。

師匠との話し合いにより同年12月にオフィス北野を退社し、官製談合事件により当時の現職知事が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙に、無所属で立候補。

当初は出馬を疑問視したり泡沫候補と揶揄する声もありましたが、タレント候補にありがちな芸能人仲間の選挙応援を一切受けず、宮崎弁を多用して愚直に政策を訴え、しがらみのない無所属出馬をアピールする姿勢に多くの県民が共感。

2007(平成19)年1月21日に投開票が行われた結果、有効投票数の44.42%を獲得し、(失礼ながら)番狂わせの勝利を収めたのです。

初登頂の際は作業着姿で周囲を驚かせ、また就任後議会での所信表明演説で発した「宮崎をどげんかせんといかん」(※実際には「どげんかせんないかん)というフレーズはメディアを通じて全国区で有名になり、後に流行語大賞にも選ばれました。

       

就任直後、公用車センチュリーを競売にかけてハイブリットカーに変えるなど注目を集めると、〝宮崎のセールスマン〟を自認しテレビなどメディアに露出して積極的に地鶏やマンゴーを売り込む姿をご記憶の方も多いはず。

おそらく東京都知事を除いてこれほどまでに注目され続け、地方自治体の産業振興や彼に会いたさに県庁舎を訪れるなど観光客の呼び込みに貢献した県知事はいなかったのではないでしょうか?

(実際、私が以前宮崎に行った際タクシーの運転手さんに聞いたところ、「東国原氏の在任中は景気が良かった、あの頃が懐かしい」と仰っていましたし・・・。)

       

地元民としてはその後も知事を続けて欲しかったのでしょうが、彼自身には更なる野心があったようで、その人気度に目を付けた自民党が秋波を送り、本人も国政進出に意欲満々。

しかし2009年に面談した当時の自民党選対委員長に「総裁候補としてくれるなら」などと強気な条件を出した辺りから、少々雲行きが怪しくなったような気がします。

その後多くの県民の期待に反し、2011年の任期満了に伴い県知事を一期で辞め、同年3月に行われた都知事選に立候補するも、石原氏に敗北。

翌2012年には日本維新の会から衆院選・比例近畿ブロックから出馬し当選しましたが
、僅か1年後には「日本維新の会の原点である理念、政策、方向性が変質・変容している感が否めない」として離党・議員辞職。

現在は評論家・コメンテーターとしてテレビ出演などをしていますが、その発言内容を見聞きするにつけ、やはり彼は国政に進出するより県知事のまま活動していた方が良かった・・・そう思うのは、私だけではありますまい。

まぁ今更県知事選に再出馬するとは思えませんが、宮崎県民にとっては残念というかうらめしい結末だった気がします。

 

 

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