重 圧 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

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オリンピックで、長らく〝日本のお家芸〟といわれてきた種目・柔道。

 

大会のたびに、「金メダルを獲るのは当たり前」という国民の期待がかけられてきましたが、その中で最もそのプレッシャーが強くかかった選手・・・おそらくそれは、

 

 神永 昭夫 選手

 

ではなかったでしょうか。 

 

名前だけでは分からずとも、〝東京五輪でヘーシンクに敗れた選手〟といえば、多くの方が思い出されることでしょう。

 

今日は、この悲運の名選手の命日・三十三回忌にあたります。

 

      

 

神永選手は1936(昭和11)年に仙台市で生まれました。

 

柔道を始めたのは高校生という日本代表選手としては珍しいキャリアの浅さながら、東北高校3年の時に挑戦した講道館の昇段試験でナント19人抜き、いきなり三段に昇進。😲

 

しかしその直後に稽古のため訪れた明治大学柔道部で全く歯が立たず、その強さに感銘を受けて同大への入学を決意。

 

卒業後は同大の先輩・曽根康治選手を慕って富士製鉄(現・新日本製鉄)に入社すると、1960・61・64年と3度の全日本選手権で優勝を収めます。

 

そして史上初めて柔道が正式種目となった1964(昭和39)年の東京五輪。

 

神永選手は、日本が軽・中・重量級と3階級連続金メダルを獲得した後、国民の期待を一身に背負い無差別級代表として日本武道館の畳の上に立ったのです。

 

誰もが全階級制覇を信じて疑わなかった決勝戦。

 

しかし日本で武者修行し、急速に力をつけた対戦相手のヘーシンク選手(↓)は身長2m・体重120kgの超大型・・・一方の神永選手は179cm・体重102kgと体格差は一目瞭然、明らかに不利でした。

 

                

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-神永昭夫 

   

しかも当時の試合時間は10分という長丁場、いかに〝柔よく剛を制す〟といえども、その圧倒的な体力差を埋めることはできず、試合終盤に袈裟固めで一本負け・・・その瞬間、日本武道館はシ~ンと静まり返ったとか。

 

しかし神永選手の淒さは、むしろこの敗戦の後でした。

 

その日の夜、酒を持って自宅を訪ねてきた会社の同僚には言い訳を一切せず「ヘーシンクは強かった」と相手を称え、しかも翌朝には何事もなかったかのように会社に定時出社して仕事を始めたというのです。

 

これぞまさに〝失意泰然〟・・・スポーツ選手というより、柔道家・武道家の鑑といえましょう。

 

翌年に網膜剥離のため現役を引退した後も、明治大学の監督として上村春樹選手を発掘・指導。 

 

自らが果たせなかった金メダルを12年後に獲得させました。

 

また小川直也・吉田秀彦ら明大の後輩を指導したり、プロレスに転向した坂口征二選手とも分け隔てなく接するなど、人格者として多くの人から慕われたそうです。

 

しかし柔道で鍛えた屈強な男も、病には勝てず・・・1993(平成5)年3月21日、直腸癌により56歳という若さで天に召されました。

 

柔道界に残した功績をもっと世に評価されることを願いつつ、ご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

 

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