4ヶ月振りの史跡訪問、半年ぶりの都内。北茨城の海岸線を往く

2020年08月01日

酉の市の発祥地とされる花畑大鷲神社に参詣

IMG_0745bsw私は、流誠号(自家用車)での移動がほとんどで、北海道や近畿、四国、山陰などの遠方へも運転して出掛けます。都内でも車で出掛けて、飲酒した場合は宿泊して帰っていたので、「一年のうち電車に乗るのは数回」ということが昔はよくありました。
15年前に
TX(つくばエクスプレス)が開通してからは、電車で出掛けることが増えました。

それが、今年は外食も史跡巡りもほとんど無く、2月以来、一度も電車を利用していません。

都内に出掛ける事も控えていたので、7月19日は、半年ぶりに都内に足を踏み入れました。
もっとも、埼玉県から東京都に入ってわずかの場所にある某寺院なので、江戸時代ならば、都内(御府内)とは言えないですね。
春の彼岸は松下家の墓参のみだったので、こちらの親族墓所は今年初めての墓参で、盆参りです。

7月は雨続きで、ほとんど晴れなかったのですが、この日は天気予報が外れて快晴。
元々が雨の予報だったためか、道路の混雑もなく、流誠号で1時間ほど走って、寺院に着きました。
そして、その帰路で、「鷲大明神」(現・花畑の大鷲神社)に参詣しました。
この近辺には、流山に向かう「流山道」がありました。慶應4年に新選組隊士らが、五兵衛新田(足立区綾瀬)から流山に向かった際に利用したのも、「流山道」です。

さて、「鷲大明神」は、新羅三郎義光(源の義家の弟)が戦勝祈願した際に見た鷲を祀ったと伝えられる古い神社です。室町時代の4〜5代将軍の頃(応永年間)、日本武尊の命日とされる11月の酉の日に例祭がおこなわれるようになり、これを「酉の祭(とりのまち)」と呼んだそうです。
これが「酉の市」の始まりとされ、江戸時代には
「花又村」の「鷲大明神」が「本酉(上酉)」と呼ばれ、千住の「勝専寺」(中酉)、浅草「鷲大明神・長國寺」(新酉・下酉)とともに、大変な賑わいを見せていたそうです。


今年は、「江戸幕末史跡千ヵ所地図」の調査研究を「江戸時代史跡地図」として、対象を広げています。
まずは「足立区」について、一覧表と地図を製作したので、本来ならば史跡巡りの実施をしたいと考えていたのですが、当面は実施が難しいので、墓参の帰りに立ち寄ってみたという訳です。
偶然にも、この日は、江戸中期に始まった獅子舞の祭事日でした。
さらに、今年3月に設置されたばかりの史跡解説板もありました。
嘉永7年上棟の本殿は、直後の大地震や幕末動乱の影響なのか、明治8年竣工。
拝殿は江戸時代初期の寛永元年再建です。
明日(8月2日)の新選組流山隊の8月度例会でも、地図や一覧表を交えて足立区の史跡の詳細を紹介します。

知る人ぞ知る「天照大和守」の雨止み効果に感謝しつつ、快晴の下で、江戸〜鷲明神〜流山という、人々の往来も想像しながら厄払いなどを祈願して、半年ぶりとなる江戸時代の史跡調査を終えました。
もちろん、早く史跡巡察会が実施できる事も祈願しました。
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arteiji at 10:24│Comments(0) ★行事:流山(下総東葛) 

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