【不安の正体】
ちょっと気の滅入ることがあってくよくよし始めるとこいつは際限がない。学校の試験や野球やサッカーの試合の前日に試験範囲の手強さや苦手意識や相手チームの評判や過去の対戦の記憶が脳裏を占めて、ついつい気後れが高まり仕舞いにはできないんじゃないか負けるんじゃないかと始まる前から慄いてしまう。
人間の不安というものには具体性がない。影のようなものに怯えているのだ。幼児が地面に伸びて自分の後を追いかけてくる影に驚いて逃げ回るのと同じだ。正体さえ分かってしまえば何でもないのに恐れを抱く。学校の試験でもスポーツの試合でもいざ始まればその中に飛び込むだけなのに。ただひたすらに問題文を読み解答を書き、あるいは敵の隙やミスを突いて畳みかけるだけだとすぐに分かるのだ。
どんなものごとでも始めてみないとわからない。だってそうだろう。明日のことなど誰にも分からないのだ。仕事のアイデアに行き詰まった同僚が京都に旅行したときビジネスネタをみつけたってこともある。長い間彼女がいない、永遠に恋愛とは縁がないのだと嘆いても街に出てみたら好きだった女の子にばったり出くわし話が弾まないとも限らない。出会い系なんとかというアプリを通じて恋人がみつかった例など今ごまんとある。
もちろん不幸な例も無数にある。歩いて家に帰る途中歩道を走る自転車に接触することだってある。電車に閉じ込められることも、狂者に刺されることも可能性の低いことではなくなった。
ぼくは若い時新聞社に勤めていたことがある。記者を志望していたのだが入社試験の成績が悪かったのだろう、配属先は絵画やスポーツのイベントを制作する事業部だった。記者になりたいという希望を伝えていて機会をまったが待っているだけではチャンスは訪れない。
大阪で花博が開かれたとき社に花博準備室が設けられた。社は花博で新しい事業を展開しようとしていた。ある日花に関わる英文記事(たぶんニューズウィークのもの)を日本語に翻訳してみろという宿題が出された。うまい日本語にならず期限がきて、できませんでしたと途中まで書いた訳文を提出した。実はそれが花博で発行される花博新聞の記者を選ぶ社内選考だったのだ。私はそのことを知らず中途で放り投げてしまった。記者へのチャンスを自ら棄ててしまったのだった。
それは私にひとつの教訓をもたらした。生きる目的を忘れてしまったら取り返しのつかないことがあるということだ。目的があれば立ち上がることができる。水が飲みたければ立ち上がって泉まで歩くからだ。人間、日々是無事に生きている。少なくともこの文章を読んでいる人はそうだ。必然のように見えるこのことでさえ、偶然の寄せ集めの危うい均衡の台上で成立している。
だから明日に対する不安など鼻息で吹き飛ばしてしまえばいい。明日になってみないとわからないものは明日が来るのを待てばいい。生きてさえいれば明日はかならず来る。明日ほど力強い希望はない。その明日を望み通りに生きていたければそれを強く欲することだ。欲しいものがなにかはっきりわかれば何をすればいいかはっきりわかる。不安は何も与えてくれない。希望が欲望に変わったとき明日は自分のものになる。人はなりたいと思うものにかならずなるからだ。