【42キロ地点】
マラソンを走っていて感極まったのはゴール直後ではなくて42キロの標識が見えたときだった。
2023年の京都マラソンは朝からの雨で気温は低く、雨は途中小止みになったが終盤になってまた振り出しコンディションの悪いレースだった。目標タイムは5時間切りである。前年の2022年神戸マラソンが初マラソンでそのときのタイムが5時間13分だったので、次回はなんとか5時間を切りたいという思いでトレーニングを積んだ。
レースまでに20キロを2時間で走りきれるところまでもっていった。そこそこ自信をつけて臨んだレースだった。
20キロまでは楽だったが急に25キロ過ぎから急に脚に疲れが出てきてなんども歩きたいという誘惑に駆られた。
リュックに用意していたリカバリー用のオレンジジュースを30キロ付近でチョコレートといっしょに喉に流し込んだ。神戸マラソンのとき同じ30キロ近辺で給食で出されたみかんを食べた。なんとなくそれが効いて終盤を乗り切れたのだ。このレースでは25キロ過ぎから走っては、歩き歩いては走るそんなだらしなさだった。私にとって25キロは魔の距離であるがこの体たらくにカツを入れてくれたのがみかんだった。今回の京都マラソンでもオレンジジュースが効いたのかもしれない。そうでないかもしれない。ただ休みたい、歩きたいという欲求を残りの距離を走る間抑え込むことができたのは確かである。
ちょっとぐらい歩いてもいいぞ――この誘惑は振り切り難いものである。間断なく甘い声でささやき続けるこいつに、いつ屈してもおかしくない。走ること対ある歩くことは断食対摂食と同等に見積もられよう。断食者の鼻の前に湯気の立つごちそうを突きつけてみたまえ。一体、何人が空腹を満たす欲望を振り切ることができるか。
そうしてよたよた走りながらやっとこぎつけた最終盤、42キロの標識が見えたとき時計は私は涙が急に出てきて止まらなかった。走りながら一度も歩かなかったはずだと何度も何度も走ってきた距離を振り返り、そうだ間違いない歩かなかったのだ。そう確信するにいたり涙が出てくるのだった。
最終的にゴールしてガッツポーズをしたときよりも42を通過した時点の方が心がずっと大きく揺すぶられたのだ。達成感の極限はゴール直前が最も大きいらしい。ゴールとは終わりでありその先には何も待っていない。終わりとは終わりでしかない。あるとすれば明日から始まる挑戦の序章であり次のレースへのトレーニングである。しかしゴール直前はゴールという歓喜をずっと味わっていられる時間である。
42・195キロを回想し苦しかった時間に対するカタルシスを得られる時間である。何ものにも代えがたい時間である。そしてそれはゴールする一歩手前で最高潮に達するのである。タイムはなんとか5時間を切ることができた。目標タイム突破よりも歩かなかったことが嬉しかった。42キロの積み重ねのなかで誘惑に負けなかったという意味において。
この歓喜を表現して19世紀の哲学者ヒルティーはこういう。
「あらゆる幸福感のなかで最も美しい瞬間は、所有の瞬間ではなくて、それに先立つ瞬間、すなわち、願望の実現が近づいて、すでに確実に見えはじめるときである」