浅草七福神巡りの続きです
最後に訪れたのは、浅草七福神巡りについて調べて初めて知った神社
矢先稲荷神社
こちらはかっぱ橋道具街の近くである松が谷にある
よく見ると、名前の部分が陶器でできてる
ホームページより
寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。
三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われました。通し矢は先人に勝てば堂に掲額できるとあって武士としての名誉となり、大いに流行したようです。この通し矢は江戸市民にも観覧が許され、評判を博しました。
京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられました。いまからおよそ360年前のことになります。
ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています。
創建以来、創業、学業、人徳の成就と武運長久の神徳に、武士、町人を問わずに尊信を篤くしました。
ところが約60年後の元禄11(1698)年9月6日、浅草を中心として大火で焼失してしまい、三十三間堂の方は深川に移転を命ぜられてしまいましたが、その鎮守である当社は信仰心の篤い町民の要望で当地の産土神として再建が許されました。
その後も関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭いましたが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至っています。
昔の三十三間堂の様子が描かれていたのが圧巻
七福神は福禄寿
これで浅草七福神の神社仏閣はすべて廻ることができた
だけど、実は心残りがあった
今年の1月、初詣に今戸神社と待乳山聖天に行っていた
待乳山聖天ではその時に、
そして今戸神社では去年のゴールデンウィークに御朱印を頂いてたけど、
それはそれぞれ神社の御朱印だった
せっかく浅草七福神巡りを制覇したんだから
御朱印もそろえたいと思い、先日七福神のものを頂きに行った
まずは今戸神社
縁結びの神様だけあってピンクのお社がいつ見てもかわいい
この日は晴れていたのでピンクが綺麗に見えてた
な~んて、思いながらお賽銭をいれようとしたら・・・
白猫のナミちゃんがいた~~~
今戸神社は招き猫発祥の地
そこにノラ猫だけど時々現れる白猫のナミちゃんがいて
ナミちゃんに会えると金運アップや恋愛成就するらしい
そのナミちゃんがこんなに近くですやすやと気持ちよさそうに寝てるだなんて!
これがホントの眠り猫だわ
去年、塀を歩いているナミちゃんを見ることができたけど
その時は写真が撮れなかった
だから、この時はビックリしてメチャメチャ嬉しかった~~
とはいえ、声を出さずに静かに写真を撮ったけどね(ちゃんと参拝の後)
そして、無事に七福神の御朱印を頂いた
こちらの七福神も福禄寿
さて、今戸神社を後にして浅草駅方面へ歩くとすぐに待乳山聖天に到着
ホームページより
当山は推古天皇の御世、地中から忽然湧き出た霊山で、その時、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。
それより6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われたとき、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)の姿となってこの山に降臨されて、 苦しむ民を救いました。これが聖天様が当山に鎮座された起源であるといわれています。
本堂の手前には出世観音が鎮座されているので
だんなのかわりに真剣にお参りした
こちらは御朱印を頂くのに本堂の中に入る
そして、頂いた御朱印は毘沙門天
これで、七福神の御朱印が全て揃った
なぜ、七福神なのに9つあるのかというと・・・
ウィキペディアより。
「九は数の究み、一は変じて七、七変じて九と為す。
九は鳩で。これは集まるの意味の他、天地の至数、易では陽を表す。」の故事に由来しているといわれる。
なので、福禄寿と寿老人が2社ずつある
右から
浅草寺の大黒天
浅草神社の恵比寿
橋場不動尊の布袋尊
石浜神社の寿老神
鳶神社の寿老人
注:寿老神と寿老人と別々の漢字になっていた
右から
吉原神社の弁財天
矢先稲荷神社の福禄寿
今戸神社の福禄寿
待乳山聖天の毘沙門天
これが浅草七福神
他にも神社仏閣に行って
御朱印を頂いているので本当は順番がバラバラ
蛇腹折りになっている御朱印を反対に折ったりして
どうにか九社の七福神を並べた
そして、浅草七福神の存在を知らずにお参りをして
頂いていた御朱印がこちら
右から
今戸神社、浅草神社、待乳山聖天
年月などで御朱印のデザインが変わるのでまた機会があったら
それぞれお参りに行こう