陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

私たちが親から相続してきたものとは

2021-09-23 | 教育・資格・学問・子ども

親がいなければ子は生まれない。子は親を選べない。しかし、子は自分を育てるものを自分で選びとることだってできる──そんなことを、かつて私は拙ブログの記事に書いた覚えがあります。

「親ガチャ」という言葉でくくられる厭世観が、若者のあいだで蔓延しているそうです。
自分の人生はままならないものであらかじめがんじがらめにされている、という宿命論が。未来を諦めるための呪いをみずからかけてしまったようで、なんとなく口惜しい。

ある人は自分の人生が不遇なのは生まれた環境が悪いという、自己修養の努力を放棄した他責的な考え、だと反論するでしょう。また、それに抗して、この考えが間違っていると言えるのは親や家庭環境に恵まれていた者だけだ、と言いつのる方もいるでしょう。

日本人に生まれついただけで幸福なのだ。紛争地域の難民やら、飢餓状態で医療体制のない国に生まれるよりも。
五体満足で生んでくれただけで感謝せねばならない。自由に動ける手足や、感覚を奪われたまま一生を過ごすひとだっているのだから。

そんなふうに、隣の青くない芝生をもちだして、溜飲を下げさせようとする意見もあります。しかし、人間の中に渦巻く嫉妬心や劣等感はどうにも押さえつけられるものでもない。きたない色のついた感情でよその生きざまを眺めることに歯止めがかからないこともあるでしょう。

昔から大物芸能人や政治家、あるいは特定の専門家、経営者層、資産家などなど、境遇が恵まれた階層には、たしかに「親の七光り」がありました。
恐れ多いことを申し上げますが、万世一系、世界で一番古い王朝であるところの、日本の皇室などはまさに食いはぐれのない環境です。しかし、とある女宮様は好きな男と添い遂げるのにさえ国民から批判されている。彼の向学心はさることながら、母親の金銭感覚や家柄について、不釣り合いだとする見解が根強いからです。現皇太后が上皇陛下にお輿入れなさるときも平民階級だからという反発がありました。昭和天皇の人間宣言以来、皇室は庶民と親しくされるという使命感に縛られている以上、彼らは下々の者を拒むことができないのです。これは、ある意味、悲劇とも言えるでしょう。

すなわち「親ガチャ」論とは、固定化されていく身分制度や階級格差への、ゆるやかな烽火(のろし)のようなものです。
人間は生まれながらに不平等だ。まさにその通りです。父母の経済力のみならず、美貌、身体能力、健康状態などなど。遺伝子によって受け継ぐものでの格差は計り知れません。親が暴力的なために落ち着かず、きちんとした学習環境がない子が、教育によって所得向上を図りましょうという国の方針があっても、その受け皿からこぼれ落ちていくことが多いのです。

裕福な家庭ほど一人の子どもにつき、高い学費をかけて育てるのです。
そして、富裕層は同類項だけのソーシャルネットワークをつくりあげるだけ、なのです。これは、日本のみならず世界各地の貧国格差がある社会の現実です。エリート層が選民意識をもたず、世の中は多くのひとで下支えされていると理解すべきなのですが、きれいなものしか見ない半端な上流意識の方ほど倫理に欠けています。

ネット社会によって、私たちはすぐ近くにいる恵まれた、あるいは乏しい生活ぶりを観察することができるようになりました。
ほんらいは知るはずのなかった、経営者層や為政者の傲慢ぶりも子どもにでもわかるぐらい目につくようになりました。そのいっぽう、ユーチューバーのように、資格いらず、勉強もせずに、誰にでもできそうな(実際はそうでもないのだが)手段で大金持ちになるケースも増えています。でも、動画配信サイトの規約変更であっという間に生計の手立てを失ったりもしますよね。倫理観に反した稼ぎ方をしてしまったからです。

私がいま不遇なのは、不幸なのは、恵まれた条件で生まれてこなかったからだ。
──と考えるのは、すごく簡単です。

でも親ガチャに外れたと不満をこぼすひとは、こう言ったりしないでしょうか。
私は友ガチャに外れた、恋人ガチャに外れた、教師ガチャに外れた、学校ガチャに外れた、会社ガチャに外れた──そして、子ガチャに外れた、嫁・婿ガチャに外れた、孫ガチャに外れた。そもそも時代ガチャに外れた、自分など生まれてこなければよかったのだ…。こういう思考の人は、亡くなってさえ、後継を縛りつづけるのでしょう。孤独ですよね。

しまいに気づくはずです、自分の周囲にいるのは冴えないものばかり。でも、その環境に居続けたのは誰なのでしょうか。自分の付き合うひとを利用価値で考えているから、そう考えてしまうのではないでしょうか。

人間が生まれつくというのは、くじを引くことではないのです。
最初から、どんな状況でも不自由なく暮らせる「当たり」を書いたくじとして、生まれた者はいません。当たりだと見えるその裏には、余人の知らぬハズレが潜んでいたりもしますし、後からハズレになったりもします。自分自身も誰かのハズレなのかもしれません。選ぶはずが選ばれているほうだったなんてことはいくらでもあります。

私と同世代くらいの親による児童虐待が増えていたり、給食費も払えない、生理用品も手に入りづらいくらい貧困が日本で進行しつつあるのは、事実なのでしょう。
コロナ禍で生活困窮者がのきなみ増えていますし、順調で業績うなぎのぼりだった人でも苦戦を強いられているのを耳にします。しかし、この苦境のときに、きちんとした蓄えがあったり、来るべき日のために自己修練をしたひととでは、心構えが違ってきませんか。

私たちが親もしくは先祖から相続してきたものは、富や才能、容姿だけではありません。
経世家たち、有名アスリート、センスのいいアーティスト、美しい俳優。彼らは優れたアドバンテージを確かに生まれながら得ていたけれども、同時にそれが重責となった瞬間も多々あったはずです。いくら肥えた土地に樹を植え付けても、根元から腐っていれば一本立ちできないのと同じで。それを跳ね返しているからこそ輝いているのです。

資産、能力値、美貌。そうした強者の指標は、まさに動物界の生存戦略にもとづくものです。それらは時代の趨勢によって、まったく意味をなさなくなったりもします。食物連鎖の頂点にいる人間は、その狭い界隈でも価値観の潰しあいをしながら、生き延びており、運悪く敗者になってしまうことはありえます。そのとき、自分をかたちづくって、価値づけているものは何なのでしょうか。

文筆家の五木寛之は、その著『こころの相続』において、われわれが承継するのは有形の資産ばかりではなく、礼儀正しさや奥ゆかしいしぐさなど、日本人の長年培ってきたはずの美学であると説いています。
国民の寿命が延びきり、肌や言語や宗教の異なる多様なルーツを持つ人間が相ならぶ国になっている現況、自分がうけついできたものの見方や考え方が自分を活かすに足るものなのかを見つめる必要があるのでは…というのが、私が「親ガチャ」論についての試みに考えたことなのです。

自分の精神状態や思考の柔らかさの点検をしておく、という態度を子どもたちに見せることができれば、彼らも苦しまなくてすむのかもしれないですね。
もし親が難しいのならば、教師が、周囲の大人が若者たちの悩みに付き従うべきなのだけれども、大人自体に余裕がないために若い世代にしわ寄せがきているのが現状でしょう。「親ガチャ」という言葉に、年齢問わず、いろんな人の苦みが引っ掻き回される気味悪さがあるのは、そのためです。とりあえず、周囲の大人は「親ガチャ」と言われないように、おもちゃや教材を買い与えるよりもまず、子どもの多幸感を育てるような愛情をそそぐべきなのです。

(2021/09/14)


この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新型コロナウイルスワクチン... | TOP | あれからの神無月の巫女、こ... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 教育・資格・学問・子ども