諸君、ご壮健かな。
初めは誤解からはじまった
鬼滅の刃。
「深掘りができていない」
かつての漫画は脇役まで深く掘り下げていて、グイグイと引き込まれた。北斗の拳のユダやドカベンの坂田三吉といった登場が少ないキャラクターですら、魅力に溢れていた。
しかしこの作品はどうだ。突然キャラクターが登場し、いつの間にやら活躍して散っていく。キャラクターは個性溢れるのに、もったいないと感じた。
そんな私は、「鬼滅の刃 無限列車編」も観て、また新たなエピソードも劇場で観ようとしている。
そして新たな物語を観る
鬼滅の刃
上弦集結、そして刀鍛冶の里へ
テレビで放映された「遊郭編」の後半から「鍛治の里編」の序盤まで。漫画を読んだので、流れは理解している。
しかしどうだろう。
心を揺さぶられ続けるのだ。
竈門炭治郎の生きる強い意思はもちろん、残酷な敵である鬼たちの生きた証も、心に刻まれていく。
そして全体感を思い出そうと、また単行本を手に取りたくなった。「なんだろう、この既視感は」そう思った時、ふと気がついた。
これは歌舞伎だ。
だから人から人へと紡がれていく
歌舞伎はほんの一瞬を切り取る。
前九年の役で無体を働く清原武衡が打首にしようとするのを止める「暫」。武蔵坊弁慶が心で泣きながら主君・源義経を打ち据える「勧進帳」。いずれもほんの僅かな瞬間の切り取りであるが、熱情に歓喜し涙する。
そう、単行本は歴史。その壮大な流れの僅かな点の輝きを捉え、その心の動きまで演じきる。その息遣い、服の擦れる音まで聞こえる臨場感。
それはまさしく、鬼滅の刃における映像版なのだ。
それだけ設定が魅了的であること。機動戦士ガンダムが、宇宙世紀といううねりから名作を輩出し続ける、宇宙戦艦ヤマトが絵が変わり新作には少女たちが紛れ込んでも魅力的である、まさしくその流れがよくできているからなのだ。
アニメはもはやサブカルチャーではない。いわばメインカルチャー。音楽で言うとポピュラーまで昇華したのだと私は思うのだ。