「破城」続稿。秀吉批判の有名な落首「あつち(安土)お田原(小田原)見るにつけても」との関連性をたどると…

【 で、いよいよ「中国製」太陽光パネル&
  洋上風力発電の締め出しを日米が合意。】


 
聞く力=八方美人で自己崩壊しつつ焦土作戦を進めるキシダフミオ。
ここまで来ると、どーすんだ?……この連中は。


 
※           ※           ※
 
【 ワンポイント追記 】
かつての「総会屋」にも似た手口の選挙妨害ビジネス??を
始めた男、根本良輔(りょうすけ)。まず間違いなく金銭目的で…

今後は(いや現在進行形で?)選挙中に「同じ事をされたくなかったら2千万円出せ、3千万円出せ」という“商談”を各政党にもちかけるのだろう。 こういう連中が現れるのは、混乱した世相の時と決まっていて、いまの日本が、札幌高裁判決などの<行き過ぎたリベラル>のせいで、いかに危ない状況にあるかのバロメーターなのかも。(→ ご覧の写真はブーメランに他ならず)

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(前回余談の続きから)
貴重な「遺跡」に恣意的なキャップをはめて隠すような展望台は、
絶対にやめて頂きたい、と。ほぼ永久に撤去できないのでしょうから…

<< あくまでも天守台上に残った礎石や地面の「保護面」としての展望台の例 >>
―― 福岡城天守台の場合 ――


(※ご覧の写真はサイト「国史跡 福岡城・鴻臚館」様からの引用画像です)
 
―― 大和郡山城天守台の場合 ――

(※ご覧の写真は大和郡山市ホームページからの引用画像です)
 
問題をいくつも感じる安土城天主台の整備計画。
このままでは「史上最悪の整備例」にもなりそうで……

(滋賀県HPに掲載の「特別史跡安土城跡整備基本計画」2023年4月11日から引用の計画図より)

 
↓      ↓      ↓

↓      ↓      ↓
【ご参考】
宮上茂隆先生の復元による天主1階の形状

 
僭越ながら、当サイト復元による天主1階の形状

このように、このままでは「史上最悪の整備例」にもなりそうで………との私の心配が、決して大げさなものではない事をご理解いただけると思うのですが、図中の問題点を繰り返しますと、

問題① 現在のところ「本来の高さ」は誰にも判定できない状態と注釈すべき。
問題② これを「1階」と表記するのは完全な間違いであり、あくまでも「暫定的な高さの整備面」と表記すべき。
問題③ 年間7万人以上がこの上を歩くため、ジオテキスタイル等の補強盛土を予定か。しかし下半分が古来の石垣のままで!!!、そこに手を付けてはならない条件下で、大勢を載せ続けるのか?
問題④ この七角形を「1階」の形状として固定する権限が滋賀県庁にあるのか?

といった問題点には、言わば考古学など学問上の問題から、安全上の問題まで、懸念せざるをえない事柄が“盛り沢山”な状態でありまして、どうしてこれほどまで無理矢理に「展望台化」を進めるのか、滋賀県の意図が解らないと言いますか、何か“真逆の意図”が整理されないまま混在しているせいではないのか……とも感じるのです。

ちなみに、日本全国の城址には、石垣が半分も崩れた天守台遺構の上に無理やり「展望台」を設置した例など、一例たりとも存在しておりませんし、このままでは安土城天主跡が「史上最悪の整備例」になる可能性は高く、一連の整備事業を推進する立場の三日月大造・滋賀県知事の「史跡や安全に対する見識」が、大いに疑われる結果にもなるのでしょう。

(※では、ここから先が本題になりますが、今回の記事は、後半で「地震」の話題が入って来ますので、能登半島地震などを連想されて不快さをお感じになる方は、お読みにならないことをお勧めいたします)
 
 
 
<「破城」続稿。 秀吉批判の有名な落首(らくしゅ)
 「あつち(安土)お田原(小田原)見るにつけても」
  との関連性をたどると… >

 
 
 
さて、前回のブログ記事では、「令和の大調査」の最初の成果報告会において、安土城主郭の「破城」が(私なんぞが思っていた以上に)徹底的に行われていた様子が報告されました。

成果報告会の後半は松下浩先生の「破城」に関する解説でしたが、最終的に先生は、安土城主郭の「破城」が行われたのは、近江八幡城の築城や城下移転(安土廃城)があった天正13年に!豊臣政権の手で行われたはず、と力説しておられまして、そんな当時の状況と、私自身が以前からギモンに感じていた“ある事柄”とを突き合せますと、思わず…

 いしふしん(石普請)城こしらへもいらぬもの
 あつち(安土)お田原(小田原)見るにつけても

という、非常に有名な、豊臣政権当時の(天下人の豊臣秀吉を批判した!)落首の一部が思い起こされてなりません。

と申しますのは、ここに「あつち(安土)お田原(小田原)」と並んだ点は、当時の安土城が巨城・小田原城に匹敵した社会的な認知度を持っていて、それらが「破城」や「落城」になった政治的効果は同大で、それは今回の発掘成果とも合致するように(も)見えるからです。………
 
 
で、この落首は、かの千利休の失脚事件さなかの天正19年2月26日付で、長谷川実忠という人が京都で書き写したもの(長谷川忠実筆京都落首/『猪熊文書』所収)だそうで、すなわち(松下先生解説の)豊臣政権の安土「破城」からは6年後、また豊臣政権による小田原攻め(後北条氏の降伏)からは約7か月後のことになります。

そして何より注目すべきポイントは、落首全体がとにかく「秀吉批判」で貫かれた点でしょうし、例えば橋場日月先生が引用した読みやすい漢字使いのもので、それを確認しますと…
 
 
都に秀吉殿批判の落首有り、長谷川忠実が書写す。
 法華経の 裏打ち紙の のり
(糊→法)過ぎて
 おりおりめげば きゃう
(経→京)ぞ破るる
 石普請 城こしらへも いらぬもの 安土小田原 見るにつけても
 寺々の 夕べの鐘の 聲聞けば 寺領とられて 何としやうや
 ちはやふる 神も敷地も おとされて 思ひのほかに 十穀を絶つ
 村々に 乞食の種も 尽きずまじ 搾り取らるる公状の
 米夢の夜の なにとかせむる公状を 明日をも知らぬ 露の命に
 よしやたゝ 今年はかくも 過ぎぬべし 又こん春は 行方知らずや
 末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るに付けても
 おしつけて ゆへばゆわるる 十らく
(聚落→聚楽)の みやこの内は
 一らくもなし
 十分になれば こぼるる世の中を 御存知なきは 運の末かな
 天正十九年二月廿六日

 
 
といった調子であり、特に三行目と九行目が
 石普請 城こしらへも いらぬもの 安土小田原 見るにつけても
 末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るに付けても

という風に“韻を踏んでいる”ようで、ここが特に作者の強調したい部分だったのかもしれません。
 
 
――― そこで、私自身が以前からギモンに感じていた“ある事柄”を踏まえますと、ここはもう少し厳密に、この落首の意味(意図=秀吉批判)を吟味する必要があるように思うのです。

例えば、この落首の「小田原」の意味を考えてみますと、小田原城の後北条氏のその後の末路があわれなために、一見、落首の趣旨は、壮大な総構えで固めた「巨城」であっても、やはり落城するのだ――といった詠嘆にも感じられるものの、しかしそれでは…
<<小田原の落城は、秀吉の「功績」であって、それを言ったら批判にならない ! !>>
という、落首全体の「秀吉批判」にそぐわない、まことに余計な、正反対のニュアンスを加えることになってしまうからです。
 
 
 
< 問題の落首の「お田原」とは、実は「巨城」小田原城ではなくて、
 「石普請の城」石垣山城のこと、ではなかったのか!?…… >

 
 

『太閤御陣城相州石垣山古城跡』小田原市立図書館蔵

 

さて、皆様ご存じのとおり、秀吉が20万余の大軍で小田原城を取り囲んだ際の、秀吉自身の陣城(御座所)が、ご覧の石垣山城でありまして、絵図のごとき総石垣の城が突貫工事で築かれました。

この城は、他の絵図では「関白様御城」などと表記された一方で、ご覧の絵図では(裏から記したような反転文字で)「太閤御陣城」とあり、やや時代が下る?この絵図でも、城の石垣はしっかりと残っていたらしく、本城(本丸)の南西側(図では左側)の天守台には、南西面の石垣にはっきりと「石垣高八間」との墨書があるほどです。

ですから石垣山城については、安土城のような「破城」は行われなかった、という風に一般には理解されておりまして、しかし現在、城跡は下記の写真のような状況であり、これらはすべて幕末の嘉永小田原地震や安政の大地震、さらには関東大震災にみまわれた結果なのだ、と言われます。

確かに、このように本丸石垣の「隅石」がクニャリと曲がってつぶれた様子などは、やはり隅石の撤去等々の「破城」は無かったことを示しているのでしょうし、ひとえに幕末の地震や関東大震災でこうなったのだ、という物的な証拠とも申せましょう。

しかし、しかし―――

<< 私自身が以前からギモンに感じていた“ある事柄”>>
どうも、天守台だけが(妙に)崩れ方が大きいのではないのか??

( ※下記写真は西曲輪から見上げた天守台の南西面 / 2013年の撮影 )


残った築石は、上記の「高さ八間」のうち、最下部の三石程度が残る状態

 
( ためしに、城内のほかの石垣との比較 / 例えば馬屋曲輪南面の石垣はご覧のとおり )

……… こうした崩れ方の差について「疑問」を呈した方は、私以外にはあまりお見かけしたことがないのですが、私自身は何度、この場を見ても、おかしいよなぁ…と感じるばかりでして、続いて試しに、他の大規模地震で崩れた天守、例えば丸岡城の天守(台)と崩れ方を比べてみますと…

ご覧の写真は、終戦直後の1948年の福井地震によって、天守木造部分もろとも天守台が崩れた様子をとらえた写真ですが、よくよく見ますと、青線で示した石垣の「天端」ラインが、まだ何とか形を残しているあたりは、石垣山城の天守台に比べれば、まだ良好な?状態と言えるのではないでしょうか。

(※この丸岡城の場合、上に天守木造部分が載っていたわけですから、条件はさらに悪かったにも関わらず、地震の第一撃に天守全体はやや耐えたものの、木造部分が傾きに耐えられずに崩壊し、石垣もろとも崩れたのだとか。 ちなみに地震の震度は、丸岡は福井地震の震源地に近く、震度6を記録し、一方、小田原は関東大震災の本震の震源地に含まれ、震度7を記録しました…

素人目の判断でまことに恐縮ですが、石垣山城の石垣の崩れ方というのは、崩れた所はあたかも液状化のようなベシャッとつぶれた崩れ方に見えるのに対し、唯一、天守台だけは、ぐるりと石垣をはぎ取ったような状態になっていて、これは結局のところ、幕末の地震や関東大震災以前の元々の状態が、かなり違っていたせいではなかったのか?―――と思えてならないのです。

(小田原市教育委員会『史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群』からの引用画像)

天守台は震災前にすでに
四隅の隅石が失われていたから、こんな崩れ方に?
↓      ↓      ↓
【 そういう疑いでは、この“酷似”が気になります 】

大規模な「破城」を受けた肥前名護屋城の天守台も、緑色の「はげ山」状態。


 

 
 

さて、実を申せば、私の「破城」認識は20年前のこの本の時点で止まっている感じなのですが、この本では、全国城郭研究者セミナーでもおなじみの八巻孝夫先生が、中世城郭の城破り(しろわり)について報告されていて、東日本の事例では…
 1.城を本格的に破却する城破り
 2.城の一部を破却する城破り
の二つに全体が分けられるそうで、後者の「一部」というのは「城の虎口を壊し埋める、土塁を壊し埋めるの二パターン」で、例えば私の地元・八王子の滝山城(=石敷きの本丸桝形虎口の埋め殺し)などを例に挙げて説明しておられます。

( 同書より / 八巻孝夫「縄張研究からみた中世城郭の城破り」)

… これらの城は防御機能を完全に停止させることよりも、これらの城を以後使わないことを宣言すること、そして城の持つ権威を失わせることに大きな狙いがあったと思わざるをえません。 そして、それにより周辺の領民に城が使われなくなったことを強烈に意識させることが重要だったのでしょう。 このパターンは儀礼的な要素が強い象徴的な城破りとすることができます。

( 八王子市HPより / 発掘された石敷きの本丸桝形虎口 )

といった八巻先生の論考に、私なんぞは勝手に勇気づけられた手合いでありまして、今後、より広く西日本の事例も含めて検証すれば、<< 天守や天守台だけの「儀礼的な城破り」>>というのも、実在したのではなかったか……などと。
 
 
 
< 石普請 城こしらへも いらぬもの
  安土城主郭・石垣山城天守(台) 見るにつけても >

 
 

【 ただし、これが唯一の反証か 】
石垣山城の天守台跡で出土した「天正十九年」銘と「辛卯八月日」銘の平瓦片。
しかしこれらは本当に、秀吉の天守のための瓦、と言い切れるものでしょうか…

では最後に、私なんぞの勝手な見立てを申し上げてしまいますと、瓦の銘の前年の天正十八年、徳川氏に城が引き渡されると決まった時点で、まさに「儀礼的な城破り」が(実際は豊臣政権の手で)なされて、目立つ天守はさっさと解体撤去されてしまい、その時、天守台石垣の四隅も大きく崩されたのではなかったか、と。

そして、何も無くなった土段状の天守台が、防御的な空白(隙間)になることを懸念した徳川方の城代・大久保忠世によって、そこに小規模な櫓が建てられ、その際に天正十九年銘の瓦が焼かれて、使用されたのでは?…と踏んでいるわけです。

そうであれば、冒頭の「落首」を含めて、すべての事柄の“筋が通る”と申しますか、せっかく急ピッチで築いた石垣山城も、用が済むと、あっという間に天守が崩されてしまい!……という印象が、「安土小田原 見るにつけても」と書かせたのではなかったでしょうか。

つまり、それだけ「天守」というのは、ある意味、便利な存在でもあったと思うのですが、どうなのでしょう。

※           ※           ※
 
【 付記1 】 ご参考。上記書で紹介された、赤穂城の天守台の「城破り」古写真

 
 
【 付記2 】 天守へのヴィスタを(登る傾斜角度も含めて)工夫した変則的な虎口
「本城(本丸)北門」も、石垣の崩れが非常に大きく、もしかすると、天守と
合わせて、滝山城と同様の「虎口だけの破城」が行われたのかも、と。

 

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