こんにちは。

東京の土曜の朝は曇り空です。

 

「令和の百姓一揆」を起こそうという動きがあります。
去年の夏にはお米が店頭から消える騒動がありましたが、お米の値段が上がっても、農業の現場が潤うわけではありません。

生産費が上がり、離農が進み、国内農業が衰退の一途をたどる中、
農家がいよいよ立ち上がって、3月に東京都内でデモをして社会に訴えようという計画が進んでいます。

 

それについてこの間「農政と共済」という媒体に原稿を書いたのですが、

考えがまとまらないので、さらに書き直してみました。

 

日本農業新聞より

 

 

 

トラクターによる農家のデモ行進を考える

 

 島根県吉賀町で、農家の有志がトラクターでデモ行進をしたというニュースが、2024年12月にありました。

一般紙や全国メディアでも取り上げられ、ヤフーニュースにもなっていました。行動したのは、吉賀町の農政会議会長を務める斎藤一栄さん(74)率いる農業者ら約40人で、

町内3キロを22台のトラクターでデモ行進し、役場前で声明文を読み上げたというものです。

 

わたしが気になった部分を抜粋すると、

「農家数が減少し、今や国土、農地を守ることが出来る戸数ではなく、山々が耕地を飲み込んでいる。

農業を守れない国に未来はない。

中山間地から、持続可能な農業、農村の実現に向けて支援と理解を。

農業者に寄り添った農政を求める。全国へのうねりとなるよう呼びかける」という内容です。

 

斎藤会長はこの声明文を役場の前で岩本一巳町長に手渡しました。

受け取った町長は、「農業は町の基幹産業、町村会などを通して国政に届けたい」と答えたということです。

筆者が感銘を受けたのは、この行動が町ぐるみだったという点です。

 

日本農業新聞YouTubeより

 

デモではなく、パレードだったのか

記事にも、「保育園の園児らは、野菜が描かれた旗を振って見送った」、「沿道から声援を送る住民もいた」とあり、斎藤会長は、「トラクター・パレードは子どもたちにも盛り上がった」と話したそうです。
抗議デモではなく「パレード」だったのかと思うと、ずいぶん印象は変わりますよね…。


もちろん実際の声明文には、農政や農業の現状に対する怒りや疑問、改革案が盛り込まれていました。
一方、表現方法としては対立構造ではなく、地域で一緒に盛り上げ、理解を呼びかけるポジティブなキャンペーンだったという印象を受けます。

わたしはこのやり方には好感が待てて、いいなと思いました。
国や政治を糾弾して終わり、ではなく、そもそも社会での共通認識、問題提起が、いまの食料農業問題に欠けていると感じるからです。
都市の人は、お米や野菜、農産物を食べても、生産現場で何が起きているか知りません。遠くにいる人の仕事は見ることができません。

 

実は吉賀町は、早くから地産地消の給食に取り組んでいたことで知られ、給食のお米の町内産率は100%、野菜も50%に及びます。(役場のHPより)
このことからも町内では普段から、農業、学校、役場が連携していることがわかります。
地域ぐるみで手をつなぐローカルな自給圏ができていたということは、小さいけれど確かな強さとも言えます。

 

日本農業新聞YouTubeより

 

農業協同組合新聞より

 

 

このままでは生産者と消費者がけんかする

そもそも、吉賀町でこうした行動を起こした背景には、
「米価が上昇しても生産者に大きな利益はない。(このままでは)生産者と消費者がけんかするようになるのではないか」という懸念があったようです。斉藤会長が答えています。

農業衰退、食料高騰、いずれも苦しんでいるのは、農民であり市民です。
本来、友達や仲間であるはずの「民」同士、なぜけんかしなければならないのか。互いの顔を見えなくしている壁やシステムの正体は何なのか。
「農業」が見えなくなっている時代、食べものを民の手に取り戻すためには、都市社会への働きかけも重要です。
3月に、全国の農家が結集してトラクターの大行進をして、農政の変革を訴える動きがあるそうです。

(農政と共済の原稿で書いたのはここまでですが、「令和の百姓一揆」にまつわる議論を聞きながら、自分の中で考えたこと書き足してみました。)

 

「食料主権」、「食の民主化」

さて、
世界的な動きとしては、「食料主権」、「食の民主化」ということが言われています。
わたしたちは、いま自分の好きなものを好きなように食べていると思っていますが、果たして本当にそうでしょうか?
スーパーで好きなものを買い物しているつもりでも、言い換えると、スーパーに並んだものしか、手に取ることはできません。
流通業者、市場、食品業者の選択と運搬なしに、購買者(消費者)は手に取ることはできていないのです。
もちろん、流通業はわたしたちに食べものを届けてくれるありがたい存在です。
一方で、それは慈善事業ではなくビジネスですから、より効率的に合理的に、大量に運ぶほうがコストは安く済みます。
少量のものをあちこちから集めると輸送の手間、時間、人件費がかかりますが、大量のもの一か所から運ぶほうがコストは少なく済み、儲けが出ます。
となると、小さな農家がいくらいいものを作っても、運んでくれるすべがないと、(ご近所より遠くへは)届けることができないのが、いまの一般的な流通システムです。
※注(実際の「流通システム」にはもっと細やかな動きがありますが、既存の大量生産・消費システムの説明として簡略化した)

つくる人と食べる人が離れた社会・経済

つくる人と食べる人が離れた今の社会・経済システムというのは(便利な一方で)、消費者のわたしたちに選ぶ権利がありません。
このことを問題視しているのが、「食料主権」(食の民主化)という考え方です。
食べ物を、つくる当事者、食べる当事者の手に、取り戻す。
フードチェーンという食の流通に、企業や中央市場の規模の経済だけでなく、顔の見えるつながり(ローカル、小規模)を求めるのが食料主権です。
仲介業者に悪気はなくても、間にたくさん人や会社が入ると、どうしてもそこに経費がかかる上に、距離が離れていきます。

果たしてフェアなトレードか?

その結果、いちばん始まりの農家の利益は小さく、フードチェーンの末端にいる消費者・市民の払う額は大きくになります。
農民(生産者)の儲けは小さく、市民(消費者)の払う額は大きい。
果たしてこの関係は、フェアなトレードだと言えるでしょうか?
フェアトレードという概念は、先進国と途上国の、主に南北問題として扱われる言葉ですが、じつは国内の生産と消費にも同じ図式はあるのです。
その間に何が行われているのか?
「知らない」ことをもう少し「知れば」、「親しみ」が生まれるのではないでしょうか。

食のサブシステム・第3の道を

もちろん、市民が毎日の食料を手に入れるために、田んぼや畑まで取りに行くことは現実的ではありません。(※わたしは世田谷の農園で野菜づくりをしていますが、当然ながらスーパーでの買い物のほうが圧倒的に多いです)

日々の食べ物がスーパーで手軽に手に入ることは便利でありがたいのですが、やはりいま、問い直したいのは、そのチェーンだけでいいのかということです。
それ以外のオルタナティブな道(もう一つの道、代替案)、サブシステムがあってもいいのではないか。

産地直送、直売所、ポケマル、食べチョク、生協、共同購入、CSA(コミュニティがサポートする農業)、生産者と直接つながる方法は、小さいけれどいろいろあります。

国の農業政策は、どうしても小さな農家を守るというより、
大規模な農業法人が大型化、スマート化、IT化して、大量生産をするほうに予算がつぎ込まれています。
なぜなら、農家が減り続けて100万人になっている今、限られた少ない人数で国民1億人の食料を賄わないといけないからです。

(高度経済成長以前、農業人口は1000万人いた)

なぜ農家は減り続けているのか。

でもちょっと待てよ。
なぜ農家は減り続けているのか。
なぜ農村から人は減り続けてきたのか。
なぜ、日本人はこんなにもお米を食べなくなったのか。
田んぼが耕作放棄地になるから、別の作物を植えるために田んぼを畑に変える「畑地化」に何百億という予算が全国的に投じられていますが、田んぼを田んぼのまま使うほうが、本当は環境にも、経済にも、社会にも、合理的ではないのか。(畑地化促進事業の予算は、令和5年度で520億円)

農家が減る社会構造のままでいいのか

農家が減るのは当たり前、というところから議論を始めるのではなく、
その手前の社会構造を見直す議論が必要ではないでしょうか。
国には「食料・農業・農村基本法」というのがあり、去年、25年ぶりに新しくなりました。
いまその法律に基づいた実践という「基本計画」が話し合われています。
食料問題、農業問題、農村問題、3つあります。
すべてに共通することも多いけれど、アプローチは違います。
食料問題とは、いま言われている食料安全保障の問題。

日本国民1億2000万人に食べ物が行き渡るようにするのが国の役目。
農業問題とは、そのために国内の農業が営まれ続けるようにすること。(食料は輸入もあるけど、自国内での生産が重要(ですよね))
農村問題とは、都市と地方(農村)とに分けられますが、地方の農村部で人々が生きる権利を保障しないといけない。(←いずれももわたしの解釈ですが)

 

食料安全保障には全体最適しかない


 食料と農業問題だけを取り上げると、集約化して、効率的に生産すればいいんだという人がいます。
 平野部の大規模化しやすい農地だけを残して、中山間地の効率化しにくい、棚田や段々畑のような条件不利地は、淘汰されればいいんだという意見がありますが、それでは、食料生産基盤としてはリスクが大きく、脆弱です。

一か所で有事が起きると、供給の過不足の変動が大きくなります。
小規模淘汰論は、全体性に欠けていると言わざるを得ません。
一つの企業が、リストラを敢行するのは自社の経営判断ですが、
業界全体の生存戦略を長期で考えたとき、目先の支出を削っても、それは短期の見せかけの数字にすぎません。
根本的な構造の見直しが必要なのです。
 鳥獣害、山の荒廃、森林の崩落や災害、農山村の生態系サービス、農村と環境、国土は絡み合っているので、切り捨てると、平野部も都市もろとも崩れてしまいます。

 

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「農家を助けよう」では伝わらない

話があっちこっちいきましたが、言いたかったことは、農家のトラクター大行進で、いまの農家の現状を世の中に発信することには賛成。

一方で、農家だけの問題ではなく、消費者・地域住民も巻き込まないと、農家支援や農村支援では社会の賛同は得られないのでは、ということ。
「農家さんを助けよう」という論調では伝わらないと思う。当事者意識に持っていかないと。

 

「食べ物を民の手に」取り戻す

という方向にしないといけないのではないか。
農民と市民は同じ「民」という視点が、食料主権であり、食の民主化です~と思ったのでした。

 

 

(追伸)

【食料供給困難事態対策法】がSNSで話題になっていまし(パブコメ募集1/23で終了)

去年は、この法案に関してオンライン署名の動きがありました。

 

 

 

「令和の百姓一揆」も、市民、農民、たがわず賛同を集めるにはオンライン署名も一つかもしれません。

 

ちなみにオンライン署名×農業で検索すると上記のようなものがありました。

実はみんな、いろんな障壁を抱え、いろんな形で闘っているんだな。

 

 

食べるものはどこから来てどう届くのか、

生産に敬意を、

消費に誠意を。

互いへの感謝とリスペクトを持って、食料システム、フードチェーンをわたしたちの手に取り戻す。

 

 

 

ベジアナあゆみ