ウイグル旅行記 25:ツアー(高昌故城 1) | 旅中毒

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2019/8/15

 

次に行きましたのが、アスターナ古墳からも近い高昌故城。高昌王国の主要な都の一つだった町の遺跡です。高昌をウイグル語で言うと「カラ・ホージャ」だって。

 

この土地の歴史をたどると、記録に残っているのは故師国ってのが最古になるのかな? 楼蘭と共に紀元前110年に漢の武帝に滅ぼされた。その後、農作と守備のために漢から兵隊が派遣されて駐留するようになり、元帝(在位:前48年 - 前33年)の時代に高昌壁と呼ばれる軍事基地が置かれるようになりました。

 

327年には謀反鎮圧を機に高昌郡という行政区ができます。しかし5~6世紀にモンゴル平原を支配していた遊牧民族の国、柔然に高昌郡は併合されてしまう。そして柔然が王を立てて、460年に高昌王国が成立。高昌王国は、508年から北魏に、そしてその後も隋、唐に朝貢していたんですが、640年に唐との関係が悪化して、高昌王国は滅ぼされました。

 

唐が弱体化した後、840年にこの地は天山ウイグル王国領となる。天山ウイグル王国は1211年にモンゴル帝国の支配下に入りますが、1260年代にはクビライ・ハーン vs オゴデイ家&チャガタイ家の内戦における最前線となってしまう。1275年(1285年説もあり)に高昌の町はオゴデイ家&チャガタイ家の大軍に包囲されて熾烈な攻撃を受けます(カラ・ホジョの戦い)。姫君を差し出すことでやっと包囲を解かれたものの、その後も攻撃は続き、王家は高昌を捨ててクムルへ、そして永昌へと逃れていったのでした。

 

 

遺跡は東西1.6km、南北1.5km。遺跡を取り囲む外壁の総延長は5.4km。街並みが残っていれば歩き回るのも楽しいでしょうけれど、今ではひたすら土獏を歩くようなもんだし、暑くてつらい。なので、見どころから見どころまでカートで運んでもらうシステムです。

 

1961年に中国政府が歴史遺産として保護するようになりましたが、それまで敷地内で地元の農家が野菜や果物を作っていたらしい。よくある話ね。アルハンブラ宮殿だって、長い間、貧民窟になっていた。

 

都は外城・内城・宮城に分けられ、それぞれの壁がボロボロの状態で残っている。一番外側の壁のすぐ内側(外城)には兵隊が住んでいたとか。内城には一般人が住み、そして内城の中心に宮城、つまり王宮があった。最盛期には町の人口は3万に達していたそうです。主な住民は、中国各地の戦乱から逃れてきた避難民とその子孫。

 

ここは町の東南の角、外城のすぐ内側。この写真のすぐ右側にあるのが…

 

小さなお寺の跡。今は東南小寺と呼ばれています。敷地は南北に17メートル、東西に12メートルあったそうですが、残っているのはこれだけ。

 

 

残存する建物は、建築様式から12~13世紀ごろのものと考えられているそうです。

 

 

礼拝窟の中には…

 

うっすらと壁画が残っています。(入り口はブロックされていて内部には入れません)

 

家屋と思われる建物の廃墟。

 

その内側。

 

例によって興奮して写真を撮りまくっているけど、写真だけでは、遺跡に興味のない人には石が並んでいるだけみたいに見えるだろうな。

 

 

 

次に宮城を見学。「ハーンの砦跡」とも呼ばれています。内城の北部分に、210メートル四方、3.4ヘクタールを占めていたそうな。王族の住居群と政庁があったと考えられている。

 

 

高昌王国の首都は交河だったらしいので、この高昌故城の王宮って、王族が来たら使う建物ってことですかね。皇居と離宮みたいな。バッキンガム宮殿とエディンバラ城みたいな。天山ウイグル王国も、ここを首都としたのはほんの数年。

 

王都でなかった時代には太守とかが使っていたんかな。ちなみに、高昌故城は、首都だった交河の故城に残っている唐代の官庁と同じ様式だそうです。この場所から西暦で言う445年を記した石碑が発見されており、高昌で亡命政権を立てた王の名前が刻まれているとのこと。

 

 

元々、天山ウイグル王国の首都はビシュバリクという町でした。が、モンゴル帝国の内乱のとばっちりで荒廃したので、1270年頃に高昌に遷都したらしい。なのにその後すぐにまた攻撃されてしまったんだね。ホンマ大変な時代だった。

 

 

あちこちに、通路から降りるなと注意書きがありました。既に風化が激しいからね。好き勝手に触ったり上ったりされたら、あっという間にボロボロになってしまう。内城の壁がほとんど残っていないのも、農地として使用されていた間に住民が壊しちゃったかららしい。アルハンブラ宮殿は貧民窟だった間も人が住んでいたので、建物自体への破壊行為は比較的少なかったんだろう。(時代もずっと新しいし、素材も違うってのもあるけど)

 

 

 

当時の都の様子を描き残した絵でもあればいいのになあ…。王宮跡に残っている壁や塔の大きさ、そして町の中に占める割合から、豊かな国の大きな都にある壮麗な宮殿だったことが伺える。

 

 

王家が去った後も当然高昌の町には人々が住んでいたわけですが、1280年にはオゴデイ家系の軍隊の略奪に遭い、荒廃しきって、飢饉が発生。あまりの惨状に3年にわたって免税措置が取られるほどだったとか。かつては華やかに栄えた都の、悲しい終わり方でした。

 

 

これは内城の壁だったかな? 内城の壁はほとんど残っていないのだ。

 

 

航空写真で見るとこんな感じ。灰色の線が、カートで走るルートだね。さて、この後は西南大佛寺を見に参りました。