2019/8/15
航空写真など使わずとも、抜かりなく地図の写真を撮っていた私。(記憶にない)
さて、高昌故城の最大の見どころである西南大大佛寺に来ました。地図の左下のとこね。この一角が一番保存状態が良いので、ガイドツアーでもここをラストにするようだし、個人客を案内するカートも最後にここを周るようになっている。
このお寺、基礎から推測すると6世紀ごろにまで遡れるようだけど、現存する建物は天山ウイグル王国の時代に建てられたものらしい。つまり12~13世紀のもの。
上の写真が外から正門を見たところ。下の写真が正門を入った中庭から正門を振り返ったところ。
広すぎるんでパノラマで撮ってみたけど、めっちゃ歪んだ!
中庭の南側と正門の両側にあった建物は、日々のお祈りなどの活動に使われていたと考えられているそうです。
お寺の敷地は東西130メートル、南北80メートル。中庭を囲んで、主殿を中心に左右対称に建てられておりました。主殿の北、東、西に僧房だったと推測される建物が残っている。
これ同じ場所を撮っているんですけど、
両方を載せてしまう。上の写真の方が横長で、壁がたくさん写ってるけど、下の写真は入り口の奥に別の入り口が写っているところが良いので。
門を入って中庭を突っ切った奥に主殿があり、その正面にあるのがこの方形の仏塔。くぼみは、大きな仏像が置かれていた仏龕なんだろうねえ。
仏塔の南側の壁面には小さな仏龕が残っている。
中庭の南側…
…の正面、北側には、ドーム状の建物が残っている。これは説教堂だったと考えられるそうです。現存する建物は天山ウイグル王国時代(11~13世紀)のものですが、三蔵法師もこの場所で説教したんだろうなあ。
そうです、三蔵法師玄奘がここに滞在したんですよ。隋から唐に代わって間もない629年(627年説もあり)、まだ20代の若き玄奘は、皇帝の命に逆らってまでインドへと旅立ちます。仏典の研究のため、原典に当たりたかったのです。それでなくとも当時の旅は命懸けですが、密出国して官憲の目を逃れながらの旅ですから、その苦難は想像を絶します。
当時は高昌王国の時代ね。王の麴文泰(きくぶんたい)は非常に敬虔な仏教徒でした。麴文泰は玄奘が唐の追っ手を逃れてついに西域の伊吾(現ハミ)に入ったと情報を得ると、使者を出して丁重に高昌に迎えたそうです。
しかし麴文泰も所詮は権力者。玄奘が、王の『今後はずっと高昌王国に留まってほしい』という願いを聞き入れず旅を続けようとするので立腹し、玄奘を監禁してしまうのだ! 玄奘は水すら飲まない絶食で抵抗します。仕方なく王は玄奘を解放し、義兄弟の契りを結ぶこととインドからの帰途に高昌王国に3年留まることをお願いしました。
その願いを玄奘は快く受け入れ、王はお礼に、20年分に相当する旅費を出してくれて、警護の兵隊も付けてくれて、更にはインドに至る途中にある24ヶ国の王に宛てて、玄奘の身の安全を守ってほしいとの書簡と贈り物を持たせてくれたのです。ちなみに、この後の天山山脈越えで一行の3分の1が死んだそうだから、玄奘だけでは生きてインドに辿り着くこともできなかったかもしれないよ。
さて玄奘はインドで大いに学び、たくさんの経典を手に入れて唐への帰途に就きます。そして王との約束を守るべく高昌王国に立ち寄りました。しかしその1年前に麴文泰はこの世を去っており、高昌王国そのものが唐に滅ぼされて地上から消えてしまっていたのでした。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。
お寺の周りにもたくさんの建物が残っている。地面を掘り下げて部屋を作る形式が多いようだ。
素晴らしい見応えの遺跡でございました。しかし1時間ほどの見学の間に干上がったからだが激しく水分を求め、入り口の土産物屋でよく冷えた水を買った時は生き返った心持ちでしたわ。
ここでも契約ミュージシャンらしき方が演奏を披露しておりましたよ。