皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

公園整備とは言いつつも

2022年04月06日 15時47分07秒 | 随想
風の噂に心ざわめく話を耳にした。

私が暮らす町の義農公園が整備拡張されると言う。それに伴い、公園内にある義農作兵衛を祭る神社が取り壊され、残されるのは銅像と墓のみというのだ。鳥居、漱盥石、奉納石柱、柳原極堂、高浜虚子、正岡子規の三つの歌碑、坪内寿夫氏顕彰碑、水前寺清子の歌「義農作兵衛」の詞碑、これらも全部取り壊されるのだろうか?だとしたらなんと愚劣で傲慢な政策なことか。毎年4月下旬に行われる「義農祭」はどうなるのだろう?作兵衛さんとは関係ないが、公園内にある忠霊塔はどうなるのだろう?
越後長岡藩の百俵の話と共に、享保の大飢饉時における伊予松山藩筒井村の作兵衛の種籾の話は全国的にも知られている話である。我が家からその公園迄歩いて数分である。子供の頃はそこでよく遊んだものだ。

そのくせ、義農精神を体現する活動を行っている個人・団体の功績を表彰する『義農大賞』なるものを新設し、その第一回として作兵衛を顕彰する懸賞論文を募集し、その審査委員長としてあのアグネス・チャンを呼び講演をして貰うという。また、作兵衛を題材にした新作能「義農」の制作を依頼するという。
神社を壊し無くし、銅像と墓だけに縮小し公園内の隅に追いやる事と矛盾しはしないか?
公金を使いたいなら、何も壊し無くすことにではなく、新たに社殿を新築するか修理するか、他の物も修理したり磨いたりして美しく生まれ変わらせ、そしてより良く配置替えをしたらどうか?

この場所は、どれ程幾多の町民の想い出とその縁(よすが)であることか。
人は生きている者の事のみ考えて生きていると必ず誤る。古くからある物を無くすという事は重々考慮してしなくてはならない

また公園に隣接してあった保育園を移した跡地は、貯水場にするという。それもショッピングモール・エミフル松前の爲のものだという。確かに町の人の雇用の一助となり、町の活性化にもなり、税金収入も増えて、モールを運営する株式会社フジには感謝する点もあろうが、彼らはボランティアではない。商売をして金儲けをしているのである。町もモールへ通じる道路の整備拡張など今迄に色々と利便を図ってきている。さらにする必要もないだろう。公園を拡張するならこの跡地を利用すればいい。

反対の意見にも「議会で決定したことだから」と傲慢に拒否する。自己の力を誇示したいのか?
悪は見えなくとも悪臭を漂わせるというが、どことなく胡散臭さを感じる。
町長、議会、町民の見識を疑う



歴史とレシピ

2021年11月20日 15時41分52秒 | 思想・哲学

何かといえば、K国C国から「日本は自国の歴史に対する反省がない・・・」「正しい歴史認識をしなくてはならない・・・」云々と嘴を入れられ、彼らに都合の良い虚偽捏造の歴史を押し付けられようとし、そして日本は謝り、金を出す。

隣家の者に「お前の家の料理はけしからん。レシピが間違っているから直せ」と言われて気に病んでびくつくやつがどこにいる。
辛かろうが、甘かろうが、酸っぱかろうが、どんな味であれ、旨くても不味くても、それがその家の味だ。他家にとやかく言われる筋合いのものではない。大きなお世話である。それなら、こちらから「お前の家の料理こそけしからん。レシピをあらためよ」といえば向こうが改めるとでもいうのか! ましてや家々の味を話し合いで協議して決めるなどというバカなことを考えてどうする。こっちが正しいそっちは間違っていると言い争いになるか、気弱なほうが、ゴリ押しに負けるかだ
他家の料理のレシピにあれこれ口をはさむのは僭越の極みである。その家の料理の味はその家にまかせ、我が家は我が家なりの言い伝えを守りつつ味の向上を研究すればいいことだ。それを他人の家と話し合いで決めてなんとする。

歴史認識も又同じである。
歴史の中の人間の言動には、その時代背景がある。現代の我々にも又その時代背景がある。そしてそれは異なるのだ。歴史上の出来事と人間を、現在の人間の目で善悪の評価をすることほど愚劣なことはない。結果から逆算していって原因を探し、結果に見合うような話の筋書きを創るための原因にしてしまうのだ。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、自己の経験を得意げに語り、自己の狭い了見からしか物事を見ない人間は、経験から何も学んでいないのだ。




第1回おがわ食事会

2021年11月16日 14時06分44秒 | 料理・飲食物

一昨日は高校時代の同級生で仲良しの友人、月に1、2度カラオケに行くスナックのママさん、そしてそのスナックに週1土曜にアルバイトに来る看護師さんの
平均年齢67.25歳の4人で「ぼたん茶屋」に食事に行きました。
以前、9月にばあさん達を連れて行った所です。まぁ今回も、じいさんばあさんと言えば言えるのですが、そこは女性陣の手前あからさまには言えません (^^)
スダチを自分達で切って採って、頂いて帰りました。食事も喜んでいただき、楽しくお喋りもし、楽しいひと時一日でした。
木々は紅葉しかかっているのもあり、秋も深まって冬が近づいている風情でした。
行き帰りの車の中での話も弾み、親交を深めるにはいい一日でした。


料理の写真は前回とほぼ同じでもあり掲載していません。4人そろっての写真はプライバーもあり、顔にはモザイクを入れました (^^)


さて次はどこに行くかな (^^♪






恐怖は知らぬ間に

2021年11月15日 06時50分26秒 | 思想・哲学

恐怖も具体的に目の前に現れれば、人はもう立ち向かうか逃げるかしかないので恐れている暇がない。すなわち恐ろしい云々言っている場合ではなくなり、覚悟して何かする以外にない。一種吹っ切れる。
目に見えぬ間は如何ともしがたく、あれこれ想像し憶測して不安に惑う。だが目に見えれば恐怖は具体的になって対峙する存在でしかなくなり、人をして戦うべき存在にしてしまうだけなのである。
もっとも戦うか戦わぬかは本人の意思だ。

だから、具体的にせず、曖昧にして、人の心に不気味さを植えつけ、恐怖を生み出し、禁忌を作り出すのだ。禁忌こそが無言で人を従わせる最良の手段なのである。
テレビ局にとっては、天皇制、同和問題、大手芸能プロ、右翼運動、市民運動、在日朝鮮人、暴力組織、宗教団体、スポンサー、古株の現役人気芸能人、これらは禁忌の大手なのであろう。
天皇制は左翼にとって禁忌であったが、マスコミの中にまるで運動家を昔の忍者の草のように埋め込むことによって崩しつつある。
同和問題は、かっては解放運動と言っていたが、今はという言葉を表に出すことさえ許されない、自主的に使わないように仕向ける。そして同和対策は事業として利権となり、同和問題を批判的に話題にすると、踏絵の様な行動を強制されるようになっている。
大手芸能プロは人気タレントを抱え、それを脅しの種に自分たちに不都合なニュースは表面に出ぬよう圧殺しようとする。
市民運動もまた、市民運動やNPOという看板を掲げて左翼や右翼が活動し、正義と人権という看板を立てに有無を言わさぬ行動をとる。
暴力組織、宗教団体もまた、背後にいる多くの組織構成員の数を力に、威圧を加えるのである。
右翼の街宣もまた、本当の右翼を貶め、一般人に右翼とは恐ろしいものだという恐怖を与える為の、ある種の人たちの手段の一つになっている。

考えてみれば、利が絡んだ欲なのであり、テレビを見ることは、出来レースで洗脳を受けることなのだろう。



自由と平等と人権

2021年11月11日 12時35分49秒 | 思想・哲学

自由と平等と人権を免罪符にして、より新たな抑圧がうまれて、我々は重苦しく口を噤まされる。
宗教の自由、言論の自由、そして人権と平等という名のもとに、必ずしも彼らは多数ではないのに、それらを声高に叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、恫喝し、我々を抑圧するのである。そしてそれは自己満足と利権を得んがためなのである。

私は、「差別はあってしかるべき、不平等はあってしかるべき」というより、「しかるべき」という言葉が誤解を招くとすれば、「仕方がなく認め受け入れるべき」と思う者である。

賢愚美醜貧富、生まれながらに不平等・不公平・不条理なのがこの世なのだ。これは宿命だ。しかし賢美富に生まれたとしても幸福な人生を送れる保証はない。
また、愚醜貧に生まれたとしても不幸せな人生しか送れないとは限らない。それゆえこの世は奥深く興味深いのである。
ただこの世は運不運がある。そして幸不幸はそれに左右されること大である。しかしそれを以って己の生の礎とせず、「世間が悪い」「他人が悪い」と他に責任を転嫁しても問題の解決にはならない。
「運命は切り開くものだ」と考えるべきであり、「運命だから仕方ない」と諦めるべきものではないのである。

世間は残酷なものだ。人より能力が劣っていたり、貧しかったり、障碍を持っていたり、難病を背負っていたりすれば、否応なく、愚弄され軽んじられるか、憐れまれ、情けを乞うか助けを求めねばならなくなる。
それを突破する唯一の方法は、人に哀れみや情けを乞うたりすることではなく、自己の運命そのものと闘うことである。その姿勢に心ある人は胸を打たれ、世が動くのである。
障害があったり貧しくあったりすればするほど明るく努力をせねばならぬ。甘えたり、拗ねたり、捻くれたり、僻目で世間を見て皮肉っぽく嫌味っぽくなったりすればするほど余計に嫌がられるのだ。
差別されようが、軽んじられようが、憐れまれようが、「なにくそ」と思い自らを奮い立たせて、そして見返す闘いをする以外にないのだ。

差別される側の味方や仲間の振りをして、自由と平等と人権という旗印を掲げて、「その言葉は差別語である」と言って使わせなくしようとする言葉狩りをし、「差別だ、差別だ」と声高に非難し叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、我々を恫喝し、抑圧して、「差別」を利権化する者たちによって、「差別」は深くヘドロのように人の心に沈殿してゆくのだ。
そういった差別を己の利権にしようと活動する人間を、差別されているとする側の内から排除することだ。そうすることによってのみ本当に差別がなくなるのだ。
正義ぶった主張をする者は、義務を忘れて己の権利のみを、規律を忘れて己の自由のみを主張するのである。

強盗が逮捕された時、警察官にけがをさせられたとして、強盗犯がその事を訴えてそれを聞き入れた裁判官さえあると聞く。何たる世間知らずというか甘ちゃんお坊ちゃまというか、理解に苦しむ。開いた口が塞がらぬとはこのことだ。
そのうち「逮捕されていただけませんか」と犯罪者に伺いでも立ててから逮捕せよというようになるのか、「人殺し様」と犯罪者にも敬語をつけねば訴えられる時代になるのか。
少女の売春を援助交際などと甘ったるい言葉で真実を覆い隠すような表現が、さも正しい事であるかのように、いかにメディアに瀰漫していることか。
凶悪殺人犯が出版社を名誉棄損などで訴えたという事を、それがまるで正当な権利でもあるが如く書いているメディアの記事を見かける。
義務を守らぬ者には権利はない。規律を守らぬ者に自由はない。冷たく残酷な言葉も又使わねばならぬ。

今一度言う、人はこの世で生まれながらに不平等・不公平・不条理である。ともすれば、この定理の如き真実を人は忘れがちになるのである。
ある種の人間は何もかも同じにすればいい、できると考える。愚である。この世は同じ単一環境の中でのクローン人間の集まりの如くにはならないし、なれない。皆同じになってどうなる。
それでは自分という独自の一個の人間として生まれる意味も価値もないではないか。




パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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