第三百六十三話 棟柱の猫
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どんがらがら、どんがらがら
大きな音をたてて、柱と梁が落ちた。
もうもうと立つ土煙に、少年は思わず顔を背けた。
朝から気温はぐんぐんと上がり、少年の額からは汗がしたたり落ちる。
空襲警報解除になった朝の広島の街では、延焼を防ぐための建物の取り壊しが各所で行われていた。
少年は師匠たる大工の棟梁にくっついて、この解体現場にやって来たのだった。
腕のいい若い職人たちは、戦地に赴いたきり帰って来ない。棟梁とともに仕事をするのは、ごま塩頭の老職人と、この少年だけだった。
「ほれ、ちゃっちゃと運べ」
棟梁にどやされ、少年は慌てて、崩れ落ちた梁のひとつを手にかけた。自分の背丈よりも長い梁は、容易に持ち上がらなかった。
渾身の力を込めて、ようやく梁の端っこを肩に載せる。その横を、少年と背丈の変わらない無口な老職人が、はるかに太くて長い梁を、さも軽そうに運んでゆく。
呆気にとられてその姿を見遣り、少年はまた、必死に梁を動かそうと試みた。
その様子を見ていた棟梁は、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
「ああ親方、大儀なことで申し訳ないが、ひとつ頼みがあるんじゃが」
この建屋の持ち主が、棟梁に声をかけた。
「あすこの、ほれ、高い棟木についとる扇と幣束、この店の棟上んときにつけたもんと思うんじゃが」
黒く煤けた棟上の飾りを、棟梁は眼を細めて見つめた。
「ああ、古そうなもんじゃのう」
「こん店が建ったんは安政の頃と聞いとるもんで、塵屑にするんは惜しい。あれを毀さんように、取って来てくれんかのう」
「ああ。おおいヘイジ」
棟梁は少年に声を掛けた。まだ梁と格闘していた少年は、へえ、と答える。
「おんし、あすこまで登って、あの飾り取って来ぃや」
「へえ、飾り」
「見えんのかい。あすこにあるじゃろ。煤けて黒くなっちょる、扇のついた、あれじゃ」
「へ、へえ」
「わかったか。わかったらちゃっちゃと登れ。早うせんかい」
「へえい」
少年は梁を地面に置き、裸足でするすると柱を登ってゆく。
煤けた飾りのそばまで辿り着いた少年は、もはや屋根も壁もない、柱組の一部しか残らぬ建屋の一番高いところから、辺りをぐるりと見渡した。
建物が空いて見通しの良くなった街の風景は、少年には清々しく思えた。
石造りのビルヂングの隙間から、大通りの銀行の階段が見えた。
そこには、兵隊の帽子を被った男がひとり、松葉杖を傍らに置いて、寛いでいる。
ふと、兄のように慕っていたある職人の姿が、少年の脳裡に浮かんだ。
兄貴が兵隊に取られてもう半年だ。兄貴は無事でいるだろうか。あんなふうにして、ひょっこり帰って来て、何処かで休んでいたりしないだろうか。
階段で休む男の足元に、かすかに動く小さな影がある。
よくよく目をこらすと、それは一匹の猫だった。
まるで男に餌でもねだるように、行儀良く座っている。
男は猫の頭を撫でる。すると猫は、男の足元でごろりと寝転がった。
丁度男の身体が日陰をこさえている、そのひと隅に。
少年は思わず、ふふふ、と笑った。
「猫はなんでも知っちょる。涼しいとこも、うまいもんがあるとこも」
三次の実家にいた猫のことが、少年の頭に浮かんだ。奉公に出て来る時はすでに老いぼれていたが、鼠を獲る腕は天下一品だった。
まだ生きているだろうか。また会いに行けるだろうか。
ふう、と少年は息を吐き、煤けた飾りの縄を解いた。
飾りのあった柱の面が顕わになる。
真っ黒に煤けた柱に、くっきりと短冊状の明るい木肌が表れた。
少年がそこを見やると。
「猫じゃ」
墨で小さく描かれた、猫の姿が。
ちんまりと行儀良く座って、柱に貼り付いていた。
ちょうど、銀行の階段で男を見ていた猫のように。
「ふふふっ」
少年は笑った。誰が描いたかも判らぬ猫の絵を見て。
「ヘイジ、さっさと降りてこんか」
下から棟梁の声が聞こえる。
「親方ー、猫が」
「あ、なにい」
「猫が、こんなところに」
少年が猫の絵を指さしたとき。
あたりを、閃光が包んだ。
少年の身体は、柱と梁と、猫の絵とともに、塵となって光に溶けた。
一九四五(昭和二十)年八月六日、午前八時十五分の出来事である。
おしまい
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第三百二話 ある少女の朝
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